サイモン・マクバーニー演出の『春琴』。大評判のようで、私が観た5日の昼の回は立ち見もびっしり、不思議な熱気に包まれていた。
谷崎潤一郎の小説「春琴抄」に評論「陰翳礼讃」を散りばめ、現代でコーティングしたといったらいいのか?
冒頭、老人=ヨシ笈田が語りはじめる現代は、「春琴抄」「陰翳礼讃」という近代へ観客を誘うが、立石涼子がラジオ番組で朗読する設定がすぐに、俗っぽい現代に引き戻す。「春琴抄」自体が、私(高田忠篤)という人物が琴と佐助の墓参りをするところから始まる入れ子構造になっていて、近代の物語の中にも、「現在」と「過去」が存在する。「陰翳礼讃」は、恐らく「春琴抄」の「私」が生きているのと同時代であり(両作品とも昭和8年発表)、現代は、老人=笈田と、ナレーター=立石の視点があるのだ。立石の朗読は素晴らしいのだが、途中で(ラストも)「春琴抄」の世界に浸っていたら、急に現代へ乱暴に引き戻された。それが狙いなのだろうが、幕が下りれば観客は嫌でも現代の現実へ引き戻されるのだ。時空を飛び越えるアイデアもいいが、もう少し整理して、「春琴抄」と「陰翳礼讃」の余韻を残した方が、現代とのコントラストがより鮮明に浮かび上がるのではないか?
「闇」を扱いながら、視覚的な芝居だ。光と影(照明)が美しく、畳、竿、着物、人形と、日本の美がうまく使われている。3階席の中央ブロックで遠目だったのだが、畳や竿の舞台効果を楽しむにはよい席だった。日本的な様式美の中で残念だったのが帯。早変わりしなければならないし、芝居の途中で着崩れたらいけないので付け帯びなんだろうが、帯を結んだら、その所作が美しいだろうなあ、と思う。歌舞伎の引き抜きの技法も使われていて、衣装替えも見どころではあるが…。
春琴の幼少期、娘時代を市松人形、若い時分は宮本裕子による人形振りで表している。深津絵里が声を演じ、女盛りの終盤で深津自身に入れ替わる。人形と、人形ぶりは「操る」という意味で効果的だ。人形は、着物の下はアタマだけだったり、人形と遣い手の手が入れ替わったり。人形振りは、宮本の動きに拍手。佐助もチョウソンハ、瑞木健太郎、ヨシ笈田が交代で演じる。
「闇」を扱って、聴覚にも訴える芝居だ。深津絵里の高く響き渡る声。「佐助、佐助」と繰り返されるヒステリックな命令口調が悲鳴にも聞こえて、耳を離れない。高石涼子の落ち着いた朗読。「春琴抄」の独特な文体は映像に映し出されるが、耳からも入ってきて、味わいを深くする。
味線の師弟の話だから三味線(木條秀太郎)はもちろん、鼓(麻生花帆)、謡。それから、晩年の佐助を演じるヨシ笈田の、台詞回し。朗読と私の語り以外には、総じて役者の台詞は短い。繰り返される台詞も多く、耳からのインパクトも強い。
目と耳に、とても美しい芝居だ。
と、またここで冒頭の、構成の疑問に戻る。立石の朗読は是非ともほしいが、”立石さん”の恋の話を挿入することはなかろう。ラジオというメディアも「現代」というより「近代」だから、冒頭、老人が二作品が大ヒットした時代を語るところでラジオをかければ、「近代」の中で朗読は成立するはず。説明しすぎないこともまた、「陰翳礼讃」だろうと思う。