演劇

ラ・マンチャの男

 帝国劇場で、『ラ・マンチャの男』を観た(脚本デール・ワッサーマン/演出・主演 松本幸四郎 30日まで)。
 『ラ・マンチャの男』と言えば松本幸四郎。この公演期間中に1100回を達成するそうだが、はじめて観た。
 
 従者を連れたセルバンテスという詩人が、教会を侮辱した罪で牢獄に入れられる。囚人達は”新入り”の(模擬)裁判をやろうと言う。そこで、セルバンテスは即興劇による申し開きを行う。その即興劇が「ドン・キホーテ」の物語。

 孝四郎の父、白鸚がアメリカで観た『ラ・マンチャの男』を気に入って、東宝に上演を働きかけたのだそうだ。演出補に長女の松本紀保、マドンナのアルドンサに次女の松たか子。家族でガッチリと固め、まだ早いだろうに、世代交代の準備も整っている感じ。セルバンテス演じる、キホーテ=田舎郷士キハーナが老人の設定だし、40年も演じているからなのか、幸四郎は力むことなく演じているように見えるのに対して、松はあばずれだけれど実は清らかな役を魅力的に、エネルギッシュに演じて舞台を引っ張っている。この人、どんどん上手くなったなあと思う。

 帝劇のミュージカルにしてはめずらしく、休憩なしの約2時間。スピーディな演出もよかった。

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ダウトDOUBT−疑いをめぐる寓話−

吉祥寺シアターにて、文学座アトリエの会 『ダウトDOUBT−疑いをめぐる寓話−』を観た。
(脚本 ジョン・パトリック・シャンリィ/演出 望月純吉 4月22日まで)

 スリリングな舞台。初演は2004年、その後2005年にトニー賞最優秀作品賞とピュリッツァー賞を受賞したそうだ。

1964年のニューヨーク、ブロンクスにあるミッション系の高校。厳格な校長シスター・アロイシス(寺田路恵)が、体育の教師であるフリン神父(清水明彦)と、転校してきたばかりの学校初の黒人男子生徒の関係に疑いを抱く。校長は、その生徒の担任教師のシスター・ジェームス(渋谷はるか)と生徒の母親(山本道子)に疑いを打ち明け、対処しようとする。

 たしかにフリン神父は疑わしい言動があるのだが、校長もあまりに杓子定規で、校長とフリン神父は普段から意見が対立しがちだったり、学校という組織の中では校長が上司だが、教会の組織ではフリン神父のほうが位が高いという捻れの関係など、いろいろな要素が提示される。おまけに、世の中では正しいことがいつも良きことではないという教訓まで出てきて、フリン神父の疑いは最後まで残ったまま…。

 最初は新人教師のシスター・ジェームスの視点に寄り添い観ていたのだが、クライマックスでは、自分自身がフリン神父と校長の間で揺れ動いた。これは、観ている人間が試されますな。

 疑惑が晴れないことで、新たな疑惑が生まれる。フリン神父が白だったらアレで、黒だったらコレと、疑いの連鎖を体験しながら劇場を出た。

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どん底

 シアタ-コクーン『どん底』(原作 マクシム・ゴーリキー/上演台本・演出ケラリーノ・サンドロヴィッチ 4月27日まで)を観た。
 去年のナイロン100℃の公演『犬は鎖につなぐべからず』は、岸田國士戯曲集。岸田は演出を手掛けた『どん底』の初日に亡くなったそうだが、明るい『どん底』を目指していたそうで、KERAはその影響を受けているという。
 人間関係が描かれているポップな『どん底』。

 舞台は、どん底の暮らしをしている人間が集まる木賃宿。イカサマ賭博師サーチン(大森博史)、錠前屋クレーシチ(大鷹明良)と、瀕死の床についている妻アンナ(池谷のぶえ)。恋愛小説を読みふける娼婦ナースチャ(松永玲子)、と男爵と名乗る男(三上市朗)。なぜか陽気な帽子屋(マギー)。アル中の元役者(山崎一)、靴屋(富川一人)に万頭売りの女(犬山イヌコ)。腐った万頭を売られたとイチャモンを付けに来たのがきっかけで、ここに出入りするようになった兄と呼ばれる男(あさひ7オユキ)と弟と呼ばれる男(黒田大輔)。この宿には泥棒(江口洋介)まで寝泊まりしているが、巡査(皆川猿時)も度々顔を出す。この巡査、大家の妻とその妹のオジにして、万頭屋に惚れている。大家(若松武史)が強突張りだと言ったところで、彼の生活も木賃宿よりはマシな程度。おまけに妻のワシリーサ(荻野目慶子)は泥棒ペペールと恋仲で、ところがペペールはワシリーサに飽きてきて、彼女の妹のナターシャ(緒川たまき)に鞍替えしたいと思案中。
 と、なかなか複雑な人間関係が展開中の木賃宿に、ある日巡礼の老人ルカー(段田安則)がやってくる。彼が宿の客になったことで空気が変わる。彼を、希望の使者とみるか、疫病神と捉えるかは難しいところなのだが、それでも老人はこの宿の一員として生活を共にするのだ。

 KERAはこの人間関係の輪の中に入らない衛生局を名乗る男セルゲイ(大河内浩)という登場人物を創った。衛生局を名乗る男は老人と違い、まったくの闖入者。「世間」なんだろう。マスコミ批判、とも、とれなくもない。
 というか、マスコミ批判だろう、これは。
 一人ひとりにスポットを当てるとお涙頂戴になるが、関係性を重視したことによって、世の中が見えてくる。大枠としての関係性と、セルゲイ。--削るべき要素はすぐにわかったんです。ゴーリキーが当時、社会運動としてこの作品を書いた主義主張、台詞がそのまま社会に対する告発になっている部分です。--とパンフレットにあるが、なんのなんの、いまの世の中をもっとクールに批判するおもしろい仕掛けを創った。

 段田、若松、犬山、などなど、いまさら誉めるのがかえって失礼な芸達者な役者が揃っている中、マギーがいい雰囲気を醸し出していた。いままでそんなふうに思って観ていなかったので、今後注目。緒川のナターシャは脚が綺麗、これで彼女のその後の運命が察せられるほど。小柄なワシリーサだが、荻野目は貫禄十分。
 時々自動が音楽に参加している。最後の合奏&合唱は出演者全員。段田のフルートは初めて観た(聞いた)。パーカッションの若松サン、乗ってましたネ。

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歌わせたい男たち

 卒業式シーズン。袴姿の大学生が、どうしてあんなにケバイ化粧をしているのだろう? 紫に花模様のつけ爪なんかしちゃったり、髪の毛今風のボサボサアップで、アイシャドウ濃くって。ミュールを履いてるドレス姿の人もいて、ああ嫌だ。ミュールは室内履き、外で履いてもドレスコードは”軽装”扱いでしょ。みっともないったらありゃしない。ところがどっこい、都立高校でもそうなのだそうだ。今年、卒業した子の親が驚いていた。で、その話で盛り上がって、質問するのを忘れた。「『君が代』斉唱はどうだった?」って。

 都立高校の卒業式における「君が代」斉唱問題を扱った『歌わせたい男たち』を観た(紀伊國屋ホール)。初演は05年で、数々の演劇賞を受賞している。
 今年採用された音楽講師、仲ミチル(戸田恵子)は、ミスタッチとあだ名がつくぐらい、ピアノが不得意。卒業式の朝も、式で伴奏を間違えないかと緊張し、めまいを起こして保健室に。そんな様子を見て、仲の真意が「君が代」伴奏のボイコットなのではと気を揉む校長の与田是昭(大谷亮介)。今年、斉唱に不起立を表明しているのは、社会科教師の拝島則彦(近藤芳正)、ただ一人。若い英語教師、片桐学(中上雅巳)は斉唱派。養護教諭の按部真由子(小山萌子)は斉唱派だが、本音は”野次馬”といったところか。

 売れないシャンソン歌手から音楽講師に転職した、「君が代」問題に感心の薄い人物を中心に据えたのが、この芝居の素晴らしいところ。拝島もガチガチの左翼ではなく、事なかれ主義の校長や若い片桐、按部なども、自分のすぐ側にいそうな人たちで、この問題を身近に感じる。主義主張が明確だったら、たぶんこの芝居に感情移入しにくかったと思う。役者は少数精鋭でコメディタッチ、爆笑、爆笑の後に、ふっと怖さが浮かび上がる仕掛け。
 仲、拝島、校長の気持ちを思うと、涙も出て来た。
 
 シャンソンと、眼鏡の使い方が、とてもオシャレだ。戸田の歌声の余韻が残る。

 客席は教師をしている人が多かったのか、いつもの観劇とは違う雰囲気。ところで、後半ちょうど盛り上がって来た頃に、近くで携帯電話の着信音が鳴った。こういうルールは守ったほうがいいんじゃないの?

 

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春琴

 サイモン・マクバーニー演出の『春琴』。大評判のようで、私が観た5日の昼の回は立ち見もびっしり、不思議な熱気に包まれていた。

 谷崎潤一郎の小説「春琴抄」に評論「陰翳礼讃」を散りばめ、現代でコーティングしたといったらいいのか? 
 冒頭、老人=ヨシ笈田が語りはじめる現代は、「春琴抄」「陰翳礼讃」という近代へ観客を誘うが、立石涼子がラジオ番組で朗読する設定がすぐに、俗っぽい現代に引き戻す。「春琴抄」自体が、私(高田忠篤)という人物が琴と佐助の墓参りをするところから始まる入れ子構造になっていて、近代の物語の中にも、「現在」と「過去」が存在する。「陰翳礼讃」は、恐らく「春琴抄」の「私」が生きているのと同時代であり(両作品とも昭和8年発表)、現代は、老人=笈田と、ナレーター=立石の視点があるのだ。立石の朗読は素晴らしいのだが、途中で(ラストも)「春琴抄」の世界に浸っていたら、急に現代へ乱暴に引き戻された。それが狙いなのだろうが、幕が下りれば観客は嫌でも現代の現実へ引き戻されるのだ。時空を飛び越えるアイデアもいいが、もう少し整理して、「春琴抄」と「陰翳礼讃」の余韻を残した方が、現代とのコントラストがより鮮明に浮かび上がるのではないか?

 「闇」を扱いながら、視覚的な芝居だ。光と影(照明)が美しく、畳、竿、着物、人形と、日本の美がうまく使われている。3階席の中央ブロックで遠目だったのだが、畳や竿の舞台効果を楽しむにはよい席だった。日本的な様式美の中で残念だったのが帯。早変わりしなければならないし、芝居の途中で着崩れたらいけないので付け帯びなんだろうが、帯を結んだら、その所作が美しいだろうなあ、と思う。歌舞伎の引き抜きの技法も使われていて、衣装替えも見どころではあるが…。

 春琴の幼少期、娘時代を市松人形、若い時分は宮本裕子による人形振りで表している。深津絵里が声を演じ、女盛りの終盤で深津自身に入れ替わる。人形と、人形ぶりは「操る」という意味で効果的だ。人形は、着物の下はアタマだけだったり、人形と遣い手の手が入れ替わったり。人形振りは、宮本の動きに拍手。佐助もチョウソンハ、瑞木健太郎、ヨシ笈田が交代で演じる。

 「闇」を扱って、聴覚にも訴える芝居だ。深津絵里の高く響き渡る声。「佐助、佐助」と繰り返されるヒステリックな命令口調が悲鳴にも聞こえて、耳を離れない。高石涼子の落ち着いた朗読。「春琴抄」の独特な文体は映像に映し出されるが、耳からも入ってきて、味わいを深くする。
 味線の師弟の話だから三味線(木條秀太郎)はもちろん、鼓(麻生花帆)、謡。それから、晩年の佐助を演じるヨシ笈田の、台詞回し。朗読と私の語り以外には、総じて役者の台詞は短い。繰り返される台詞も多く、耳からのインパクトも強い。

 目と耳に、とても美しい芝居だ。 

 と、またここで冒頭の、構成の疑問に戻る。立石の朗読は是非ともほしいが、”立石さん”の恋の話を挿入することはなかろう。ラジオというメディアも「現代」というより「近代」だから、冒頭、老人が二作品が大ヒットした時代を語るところでラジオをかければ、「近代」の中で朗読は成立するはず。説明しすぎないこともまた、「陰翳礼讃」だろうと思う。

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屋上庭園/動員挿話

  新国立劇場で、『屋上庭園/動員挿話』を観た。
  作・岸田國士 演出・屋上庭園=宮田慶子 動員挿話=深津篤史

 「屋上庭園」と「動員挿話」は独立した話で、それぞれ演出も違うが、小林隆と七瀬なつみ、山路和弘と神野三鈴が、同じ組み合わせで、それぞれの芝居の夫婦を演じる。「屋上庭園」では裕福な夫婦だった小林&七瀬が「動員挿話」では馬丁の夫婦、「屋上庭園」では貧しい夫婦を演じた山路&神野が「動員挿話」では陸軍少佐とその妻、という具合で、これが一つの見どころとなっている。舞台美術も同じだ。
 2005年の舞台の再演だそうだが、残念ながら初演を観ていない。

 「屋上庭園」は、日本橋の三越と思われるデパートの屋上で、学生時代の友人が偶然再会するストーリー。小説家を志しながら今は失業中の並木(山路)と、裕福な家柄ではあるけれど闘病中の三輪(小林)。並木は、貧富の差に愕然としながら富める者に対し悪態をついてみても、人の良い(そして病気を抱えている)三輪の前では脆さが出てしまう。彼らの5年後、三輪はまだ生きているのだろうか。
 と書くと男同士の話のようだが、「世間」とか「階級」あるいは「貧富」といったものをいろいろ考えさせられる。二人とも妻を連れていて、夫婦の絆もみえてくる。神野演じる並木の妻の健気さにぐっと来た。

 「屋上庭園」が日常の静かな芝居なのに対して、「動員挿話」は骨太の作品。
 日露戦争に出征する陸軍少佐宇治(山路)が、馬丁の友吉(小林)に一緒に戦地に赴くように説得する。友吉の女房数代(七瀬)は、夫を戦争へ行かせまいと猛反対。友吉は、世間や主人夫妻への義理と、妻の間で往生するが…。
 友吉自身は職業軍人ではないが、少佐の馬丁であり、馬が陸軍に欠かせなかった時代のこと。宇治が、愛馬の世話をしている友吉を連れていきたいのは無理ならぬこと。非常時の戦地で、慣れない馬丁で、馬の世話が出来なかったら大変だ。職業上の必要性が絡んでいるから、友吉の立場はややこしくなる。男として「戦争に行かない」という世間への義理の悪さと、満足している職業を失う怖さと。
 女房の数代は、そんなことは知ったこっちゃない。生きてさえいれば、なんとかなる。二人が離れることなんか、考えられない。そういわれると、友吉だって、男として悪い気はしない。戦地に行くのも、行かないのも、どちらも男としての迷い。優柔不断な男を演じる小林がいい。七瀬の数代は勝ち気で、圧倒される演技。女学校を出ていて学がある設定のようだが、賢いというより、今度こそ幸せになろうと思ったワケのある女の一念のようだ。
 それから神野の、奥様。出征に反対する数代を「うらやましい」というが、本音だろう。黒板に書かれた日の丸を消していくと、手が赤く染まる、あの演出は見事だが、でも彼女にどうすることができただろう。せめて友吉夫婦を自由にしてやろうと思うのに、数代に気持ちが伝わらない哀しさ。奥様と数代の心が通じ合えば、と思わずにいられない。
 
 パンフレットに新国立劇場 演劇芸術監督の鵜山仁が「セリフの合間から匂い立つ、この人間臭はいったい何だ。」と書いているが、登場人物は実に人間臭く、それを演じる俳優たちも明治の生身の人間を演じて違和感がない。上手く言えないのだが、俳優の身体性とでもいうのか…。

 「屋上庭園」に出てきた、世間とか職業、階級、貧富、夫婦、女性の地位などのモチーフが「動員挿話」にも使われていて、「屋上庭園」を観ていろいろ考えさせられるからこそ、「動員挿話」に感情移入できたとも言える。まったく違うようでいて、共通点が多い。二本上演のもともとの意図も、そこにあるのだろう。

久しぶりに、ずっしりとした芝居らしい芝居を観た。(3月9日まで)

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ジャックとその主人

 吉祥寺シアターで『ジャックとその主人』を観た。串田和美と白井晃のプロジェクト第二弾だ。第一弾は昨年シアタートラムで行われた『ヒステリア』は、フロイトのお話で面白かった。

 今回の作者、ミラン・クンデラはチェコソロヴァキア生まれ。79年にチェコソロヴァキア国籍を剥奪され、81年にフランス市民権を取得したそうだ。この『ジャックとその主人』は、ディドロの長編小説『運命論者ジャックとその主人』の翻案だそうだ。と言われても、知らないんだ『運命論者ジャックとその主人』、ディドロって『百科全書』の人でしょう?

 ジャック(串田和美)とその主人である貴族(白井晃)が、旅をしている。不安と退屈を紛らわすために、互いの”昔の恋”の話をしはじめる。泊まった宿屋の女将(宮島知栄)からも、”恋”の話を聴かされる。ジャックと主人と女将のそれぞれが語る恋は、それぞれの立場は違うが、どこか似ていて…。

 舞台の中にもう一つ舞台が出てきて、彼らの恋愛話が語られる。話の中の登場人物は白塗りで18世紀風の衣裳。ジャックと主人は現代風な(あまりさえない)衣裳で、恋の話と旅の途中を行ったり来たり。
 戯曲の、入れ子構造とか、相似形のエピソードがリフレインしたり、演劇人にとっては、面白い戯曲なんだろう。運命は「そういうことはすべて天にかかれているんだって」といいつつ、自分たちの運命を握っている神様を「ヘボ作家」と呼んだりしているし。しかし説明的になってしまったようだ。哲学的な部分は削り、”色事”に徹した方が却って”運命”が見えてくるのではないか?

 吉祥寺シアター3月2日まで。まつもと市民芸術館3月6日~9日。

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人間合格

 新宿南口・紀伊國屋サザンシアターこまつ座の「人間合格」を観た(2月10日~3月16日まで)。
 
 太宰治の評伝劇。「人間失格」「晩年」や「走れメロス」など、太宰の作品が随所に盛り込まれている。
 津軽の地主の六男に生まれた津島修治=太宰(岡本健一)。生みの母から離されて、乳母や叔母に育てられ、家の中では居場所がない。家父長制度に疑問を感じ憤ってみても、農村の疲弊に心を痛めても、一歩外に出ると地主のお坊ちゃま。
 東京帝国大学に入学し、佐藤浩蔵(山西惇)、山田定一(甲本雅裕)という友を得て、世直しの理想に燃えるが…。
 他に、世間と上手く付き合う大人を代表して中北さん(辻萬長)、男性陣4人は、キャラクターがハッキリ書き分けられている。太宰と絡む女達に田根楽子、馬渕英俚可。 岡本健一の太宰は、全然ニヒルじゃないし、無頼とか退廃というより、ナイーブだからこそ時代の波に揉まれて苦悩した青年といった感じ。社会に抗ったり、志を貫くのはどれだけ大変なことか…。(しかし、甘いんだけれど…)。そして、友情。

 私ははじめて観たのだが、20年前の戯曲で、今回で5演目だそうだ。井上ひさしがパンフレットの前口上に--「現在のお客さま」が、この戯曲を受け入れてくださるかどうか。--と書いているが、岡本の起用で今日的な太宰になったのではないだろうか。

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チェーホフ短編集--マイケル・フレイン翻案『くしゃみ』より--

 去年観た、井上ひさしの『ロマンス』は、チェーホフの評伝劇だった。チェーホフは、人を幸せにする”笑い”を好んだ、という井上の解釈。その印象が残っていて、チェーホフの喜劇を是非観てみたいと思っていたら、「子供のためのシェイクスピア」シリーズの演出をしている山崎清介が、短編集をやるという。出演者も、伊沢磨紀、佐藤誓、山口雅義をはじめとする「子供のためのシェイクスピア」のカンパニーでお馴染みの面々。それなら、是非観なくっちゃ!(あうるすぽっと 2月3日まで)

 原作はアントン・チェーホフだが、一旦英語に翻案したものを、小田島恒志が翻訳している。翻案はマイケル・フレイン、『ノイゼズ・オフ』や『コペンハーゲン』の作者だ。--現在、イギリスで上演されているチェーホフの舞台のほとんどはフレイン訳(パンフレット)--とある。小田島はイギリスでフレイン訳のチェーホフを観たとき、明るくて面白かった、と話している。登場人物たちの混乱が喜劇になる、『ノイゼズ・オフ』の作者なら、なるほどね。

 今回上演されたものは「ドラマ」「外国もの」「熊」「タバコのの害悪について」「白鳥の歌」「プロポーズ」の6話。一つ一つが独立した話ではあるが、旅役者の一座が上演するという大枠をつくって、繋がりを持たせた演出。
 この旅役者の一座、昨年の夏にこのカンパニーが上演した『夏の夜の夢』の、アテネの公爵シーシュスとアマゾンの女王ヒポリタの結婚を祝う職人たちだ。「ボトムさんへ」なんていう暖簾まである懲りよう(笑)。あの一件で芝居に目覚めてしまったのか、彼らの住む土地を奪われてしまって(「三人姉妹」?「桜の園」?)旅の一座(シェイクスピア劇では良く出てくる)になったのか? はともかく、職人たちは、愚かで愛らしい”人間”の代表だ。6話を繋ぐだけでなく、シェイクスピアとチェーホフを繋ぐ役目もこの職人たちに託したわけだ。

 私の好みは作家志望の女が有名作家のところに押しかける「ドラマ」、粗野な借金取りと未亡人の口論が決闘話になってしまう「熊」、講演をしているうちに愚痴を話してしまう「タバコの害悪について」。井上ひさしが言う「人を幸せにする笑い」というより、人間の本質を浮き彫りにするシニカルな笑いだ。朗らかというより皮肉屋の笑い。それは、フレイン訳を通したからか、チェーホフのカラーなのか、私たち観客にはわからない。
 抑制した演技の先の笑いを狙ったのか、やや悲劇的な印象も受けるのだが、旅の一座に仕立てた職人たちが、けっこう利口になっていて哀愁を帯びている、その影響もあるのだろう。彼らが”愛すべきおばかさん”のままだったら、優しい笑いが生まれたと思う。あるいは子供のためのシェイクスピアのイエローヘルメッツを、そのまま出してしまったほうが、もっと突き放した笑いになっていたかも。
 観る側もチェーホフの笑いには、慣れていないところがあるしな。 

 チェーホフも、シリーズとして続けるらしい。次回は来年『ワーニャ伯父さん』だとか。チェーホフもシェイクスピアも、全作品制覇を期待しています。どうぞよろしく、山崎さん!
 
 ところで、「あうるすぽっと」。約300席ながら割とゆったりしていて観やすい劇場なのだが、エレベーターが混み合って不便。同じビルに入っている他施設を利用する人とかち合うのは仕方がないが、帰りに階段を誘導するなら、階段のドアをストッパーで押さえたり、係りの人を立たせるなど、きちんとした誘導をすべきだ。

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ペテン師と詐欺師

 08年の観はじめは、日生劇場で行われている鹿賀丈史と市村正親のミュージカル『ペテン師と詐欺師』 (脚本 ジェフリー・レイン/音楽・作詞デイヴィッド・ヤズベク/演出:宮田慶子)。
 
 夏のリゾート地リビエラで、某国の、亡命中の王族を名乗り、裕福な女性を手玉にとるイギリス人詐欺師ローレンス(鹿賀丈史)と、相棒のアンドレ(鶴見辰吾)。旅の若いアメリカ人ペテン師フレディ(市村正親)は、ローレンスのテクニックと贅沢な暮らしぶりを見て、弟子にしてくれと頼む。共謀して大金持ちから大金を巻き上げるものの、縄張り争いになって…。

 騙し、騙され、でも後味のよろしい、良質の娯楽。ストーリーはたわいもないが、鹿賀と市村の二枚看板と、ミュージカル売り出し中のソニン(二人が勝負を競うターゲットの若い女性、クリスティーン)がウリで、なかでも市村だ。若いフレディをコミカルに軽~く演じていて、鹿賀がしっかり受けてくれるから、結構ノってやっている。この人、先月は帝劇で『モーツァルト!』の父親レオポルトを演じていた。両方再演(『モーツァルト!』は再々演)とはいえ、続けて舞台に立っている。たぶん、レオポルトよりフレディのほうが、彼の演技の質にあっていそうだし、遊びどころがたくさんあるだろう(俗に言うオイシイ役でもある)。

 しかし市村が軽く達者にこなせばこなすほど、「フレディは若者の設定なのに、いまだに市村正親がやっているということは、軽妙な喜劇性を持った若い(中堅でもいいけど)ミュージカル俳優が見あたらない、ということなのか?」という不安が頭をもたげてくる。飄々と主役を張るのは難しいだろうけれど…。
 昨今ミュージカル流行りなわりには、層が薄いような。ちゃんと歌って踊れる人も少ないし。だいたい鹿賀、市村の二枚看板(それはそれで嬉しいが)自体が、ねぇ。 

 ということで、バランスをとって、女性若手有望株のソニンを器用したのだろう。ソニンは、歌が上手い。度胸もよさそう。立ち姿がより綺麗になると(ダンスの訓練でしょうか)、もっと舞台映えするだろう。頑張って!

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恐れを知らぬ川上音二郎一座

 年をまたいでしまったが、07年の観納めはシアタークリエのこけら落とし『恐れを知らぬ川上音二郎一座』(作・演出 三谷幸喜 12月27日)。チケットがとりにくい三谷作品で(私は、三谷氏が東京サンシャインボーイズを率いて、下北沢の駅前劇場で演っている頃から見始めたが、人気が出てきたらチケットが取れなくて、見逃した作品数知れず)一年の最後を締めくくれるなんて、なんてラッキーなんでしょ。

 こけら落としにふさわしい題材だ。

 日本で最初にアメリカ巡業をした劇団、川上音二郎一座の物語。アメリカに来たはいいが、悪徳マネージャーに資金を奪われ、やっとの思いでついたボストンで一日だけ貸してくれる劇場が見つかった。その、ボストンが舞台。あまりにヒドイ巡業だと役者達がストライキを起こす中、座長の川上音二郎は、翻案『ベニスの商人』を上演することを思いつく。さてこの興行、うまくいきますかどうかは、芝居を観てのお楽しみ…。

 川上音二郎にユースケ・サンタマリア、妻で日本最初の女優と言われる貞に常磐貴子。シアタークリエは商業演劇を打つ小屋で、三谷は初・商業演劇なのだそうだ。主役の二人の起用はネームバリューがあるってことなんだろう。本は宛書きなので、ユースケの熱いイメージ(人のいいところが前面に出てきてしまい、やや強引さに欠けるが)、常磐の優しくおっとりしたイメージ(なにより美しいし!)が活かされている。 
ただ、芝居の冒頭、弁士の堺正章が「ユースケはようやく昨日台詞を覚えました」と言っていたのは、あながち冗談ではないだろう。ユースケは初舞台、常磐も舞台経験が少ないという。上手い下手は置いておいて、二人とも映像の人なのだ。自分にスポットが当たっていないときに、芝居をしていない。流儀というか、身体性が違うから、役者も大変だ。

 主役の二人が不慣れな分、他の役を芝居巧者でガッチリ固めた。戸田恵子、堺雅人、浅野和之、今井朋彦、堀内敬子、阿南健治、小林隆、瀬戸カトリーヌ、新納慎也、小原雅人と嬉しい名前が並ぶ。「おお!」と唸る俳優ばかりだ。堺正章は言うまでもなく器用な大物だし、ミュージカル俳優の新納慎也も三谷作品に馴染んでいる。
 戸田恵子、堺雅人が物語をしっかり運んで、他の役者が個人技を存分に披露している。中でも素晴らしかったのは、女形の蔵人を演じた浅野和之。芸が細かい! 大道具の熊吉役の阿南健治も飛んだり跳ねたりの大活躍。そして、津軽弁を披露した堀内敬子! 金太郎姿も可愛らしい。
 
 お腹を抱えて笑ったのだから、それで満足すればいいのだが、やはり気になるのは「商業演劇」という括り。三谷作品の場合、いままでのPARCO劇場やセゾン劇場でのプロデュース公演とどこが違うんだろう? 三谷の作品というだけでチケット完売間違いなしだろうに、ねぇ? ましてや舞台好きにはたまらない、映像でも人気がある役者が揃っているのに、なぜ? 

 

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モーツァルト!

 ミュージカル『モーツァルト!』を観た。モーツァルト役はダブルキャストだが、中川晃教のファンの私は、迷わずアッキーの日に行く。

 一昨年の『モーツァルト!』よりも、こなれているというか、より感情豊なモーツァルトになっていた。一部の若い頃は元気で時として不作法にも見えるが、自分の才能を信じて恐れを知らないヴォルフガング。二部になると、権力に抗い新しい音楽を創る半面、世間の荒波に揉まれ、自分の影(アマデ)に怯えていく。とくにこの後半が深みを増した。アッキーといえば歌い上げる美声に圧倒されるのだが、今年は歌い上げるだけでなく、声の強弱の付け方がとても上手くなった。歌うようにしゃべり、しゃべるように歌いはじめて、観客を引き込む。「僕こそ音楽」「残酷な人生」「影を逃れて」に、酔いしれる。そしてコンスタンツェとの絡みも成長したところ。

 コンスタンツェは一昨年の東京公演は西田ひかると木村佳乃で、二人ともどこか凛としたところのある女優さんだった。今回のhiroは、怠惰で蓮っ葉な半面、一途な感じも出ていて、本来この役はそうなんだろうと思わせる。これで歌が上手かったらいいのだが、hiroの声では、このミュージカルの歌は荷が重そうだ。
 東宝は、舞台の歌がしっかり歌える人材を、きちんと育てたほうがいいのではないか?

 涼風真世の男爵夫人は、包み込むような母性があり、「星から降る金」は聴かせる。シカネーダーの吉野圭吾は相変わらず身のこなしが華麗。大司教の山口祐一郎は馬車の場面の悪ふざけは似合わない。ほどほどにしておいたほうが、大司教の権威が保たれるのでは? 父親役の市村正親、姉のナンネール役の高橋由美子は安定している。

 当日券で入った某日昼の回に、高校生の演劇鑑賞会と一緒になった。始まる前はお喋りが煩かったので、どうなることかと思ったが、幕が開くと私語は慎み、拍手も大きくて楽しんでいる様子。終わったときには「上手いねえ」「面白かったねえ」「30分ぐらいしか経ってないみたい。夢中で観ちゃった」と口々に話していた。「ほらね、アッキーはいいでしょう?」と話しかけたくなったが、 そうか、『モーツァルト!』は、父親や世間(大司教)を超えようと葛藤したり、自分の分身と対峙する成長物語だから、高校生の共感を呼ぶのだろう。

 再演を重ねた『モーツァルト!』には、主役の若い二人がミュージカルスターとして育っていくのを観る楽しみもある。ヴォルフガングとして成長していた中川晃教。となると、「私はアッキー派!」などといっても、井上芳雄のヴォルフガングを観てみたくなった。

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ア・ラ・カルト 役者と音楽家のいるレストラン

 今年も『ア・ラ・カルト』の季節がやって来た(演出 吉澤耕一/構成 白井晃/台本 高泉淳子/音楽監督 中西俊博/於 青山円形劇場)。19年前、この『ア・ラ・カルト』がはじまったときに、「日本で一番オシャレで素敵なクリスマスシーズンのお芝居だ」と思った。19年の間には若干のスタイル変更があり、パワーアップしながら、日本で一番オシャレで素敵なクリスマスシーズンのお芝居であり続けている。 

 青山の路地にあるらしい小さなレストラン。オーナー役白井晃の、早口な口上で幕が開く。この決まり文句の挨拶を聞くと、ワクワクするのだ。
 タカハシくんとノリコさんコメディは、その年の話題を織り込みながら。恋人未満のカップルの話は、その年のビジターが、高泉演じるキャリアウーマンの相手になる。今年のビジターは筒井道隆で、以前に白井や高泉、陰山泰とも共演している。いや、この芝居(「料理と恋はまず初めて見なけりゃわからない」)の筒井は、ほのぼのとしていたんだけれど…。
 なんてったって「Show Time」での筒井が傑作。いや、傑作なのは、白井のペギーさんであり、陰山のアントニオであり、高泉率いるジャクソンズなのだが、筒井一人素のままってところがなんともおかしい。筒井だって、フラワーボーイズやジャクソンズのメンバーとして扮装はしているんだが、強烈なキャラクターの中に入って、観客が想像する「筒井クン」のまま、照れながら頑張っている。二部冒頭の「マダムとクリスマス」でも(このコーナーはビジター紹介なのだが)、高泉のマダムに突っ込まれるたびに助け船を求めるように白井のほうを見るし、最後のハンドベルも緊張している様子。素直というのか無器用というのか、これがキャラクターだったら「恐るべし!」なのだけれど、このズレがおかしくて、でもどこか爽やかだし、照れてる様子が可愛いしで、大爆笑。今年のビジタ-が筒井道隆だと聞いたとき、正直言って、器用な人でもないし、歌や楽器をしているとも聞いたことがなかったから、大丈夫なのかと心配したけれど、いやー、白井たちの狙い通りだったんでしょうね。

 遊◎機械/全自動シアターの頃から、白井、高泉はもちろん陰山、そして演出の吉澤もそうなのだろう、この人達はキワドイことをやっても、決して下品にも嫌味にもならない。親しみやすさと上品さをほどよく持っているところが、ミソ。
 「カエルの王子はアイゼンヒッティル王がお好き」は、高泉が出た『テンゲルグリム』繋がりだろう。そして「ラストダンス」、この老夫婦の物語は毎年観ているのに、涙を誘う。そして陰山演じるギャルソンが煙草をくゆらすシーン。絶品だ。
 
 今年の『ア・ラ・カルト』を観た後に、『高泉淳子 仕事録』(河出書房新社)を読んだ。「ラストダンス」の構想が固まったことで『ア・ラ・カルト』という作品がまとまり、出来たという。ああ、やっぱりそうなのか。これがあることで、作品として安定しているし、なにより人生の賛歌になっている。
 今年一年いろいろあったけれど、お腹の底から笑って、ほろっと泣いて、来年もいい年になりますように、と劇場をあとにするのだ。抜けてしまった年もあるが、こんなに長く見続けていると、自分の人生と重ねあわせてしまう。
 
 --『ア・ラ・カルト』も一九年目を迎えます。今は、この作業がなによりも楽しい。本を書いているときも、ステージに上がっているときも、至福の時です。この作品には私の好きなものがすべて入っている。(中略)三年続くことが夢だったのに、なんと、一九年。何年続くかわからないけれど、形を変えても、『ア・ラ・カルト』はやっていきたいですね--(『高泉淳子 仕事録』より)。嬉しい。


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欲望という名の電車

 東京グローブ座で観た『欲望という名の電車』は、改めて、こういう物語だったのか、と唸った(作 テネシー・ウィリアムズ/翻訳 小田島恒志/演出 鈴木勝秀 )。

 元教師のブランチ(篠井英介)は、妹のステラ(小島聖)を頼って、ニューオリンズのフレンチクォーターへやってくる。姉妹は、南部の大農園ベル・リーブで育った上流階級の出身。だが、ステラは家を飛び出し、一緒になったスタンリー(北村有起哉)はポーランド系の粗野な男。大農園を手放し、落ちぶれてアルコール漬けにも拘わらず、上品ぶっているステラの態度が、スタンリーは我慢できない。そんな中で、スタンリーの友人ミッチ(伊達暁)は、ブランチに好意を寄せ、ブランチもまたミッチの愛情に応えようとするが…。
というストーリー。

 ブランチの物語かと思っていたが、今回の舞台はちょっと違う。まず、フレンチクォーターの人々の貧しいけれど本音で生きている姿が、よく描けている。そこに女形の、つまり様式美の篠井英介が入ることで、ブランチがよそ者であることが際立ち、決定的に生活能力がないことがわかる。
 ミッチはかなりカッコイイ、男らしい男だが、彼は母の介護を負っている。大家夫婦も生活が垣間見える。小島のステラは明るく、辛抱強さも身につけた女性。
 そして、なによりスタンリーだ。粗野で下品な男として描かれるのが定番だったが、北村のスタンリーは、自分の生活を守ろうと必死だ。上流階級の出身にも拘わらず、惚れて自分についてきてくれた可愛いステラ。地主のお嬢さんだったとは聞いてはいたが、姉の出現によって、それが本当のことだとわかる。上品ぶっている姉の影響で、「ステラもこの貧乏暮らしに嫌気がさすんじゃないか、自分から離れてしまうのではないか」という不安を、北村から感じるのだ。面と向かって自分をバカにするのも腹立たしいが、家庭を壊されてはたまらない。だからこそ、ブランチの仮面を剥ごうとするのだろう。
 腕っ節が強い大男ではない、北村のスタンリーに拍手! スタンリーやステラの思いも、実によく表れていた芝居だった。

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イーストウィックの魔女たち

 千秋楽が11月12日だったから、いまさらながらなのだけれど、ミュージカル『イーストウィックの魔女たち』。

 イーストウィックという、保守的な町に住む、離婚経験(一人は別居中)がある女達(マルシア、森公美子、涼風真世)。彼女たちは「秩序を乱す」という理由で町の嫌われ者。彼女たちを目の敵にするのは、町の有力者で新聞社のオーナー(大浦みずき)。ある日、町外れの邸宅に、ダンディなよそ者(陣内孝則)が越してきたことから…。

 たわいもないストーリーだが、こういうミュージカルは個人技を観に行く。オープニングを飾る、愛くるしい少女役の小此木麻里の歌声に引き込まれた。歌声といえばもちろん森公美子。そしてマルシアの歌とお色気、舞台度胸とでもいうのだろうか。
 それから、大浦みずきの踊り。なんてダイナミックな素晴らしい踊り、なんて美しい脚なんだ! 彼女がガウン姿になったときには、「勿体ない。もっと脚を見せて!」と思ってしまった。大浦みずき演じる敵役が光ればこその、この舞台だった。いや、ファンにとっては「今更何を言っているんだ?」だろう。申し訳ない。パンフレットを読むと、宝塚時代は「ダンスの名手」と言われ、退団後はストレートプレイでも高い評価を得ているそうだ。遅ればせながら、今後チェックしていきたい女優さんだ。

 と、収穫は沢山あった。

 しかし、なんだな。平日の昼間に行ったのだが、後ろの席の人たちはまだ20代と思う若さなのにすでに心はオバサンで、ウチでテレビ観ているみたいにずーっと大きな声で喋っていたし、休憩時間に客席通路を歩いていたオバサンは、客席に田中好子さんの姿を見つけたらしく「あっ、スーちゃん!」と立ち止まってしまう。おいおい、後ろがつかえているんですけど。団体で来る人たちはワガママなのか?
 そんな観客にあわせるように、指揮者が拍手の練習をさせるのは、どうなの? 感動したから拍手をするんじゃないの? 客に強要するなんてどうかしている。そんなことをしなくても十分盛り上がる、芸達者な役者が出ているのに、ミュージカルの質を自ら落とすようなマネをしているようで、痛々しい。そりゃあ、ずーっと大きな声で喋っているような人には、芸とか技が、わからないでしょう。でもそういう人は、わからなくて結構、幼稚な拍手の練習などさせないでほしいものだ。

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キャバレー

 追加公演のチケットが手に入り、やっとの思いで観た、大人気の『キャバレー』(台本 ジョー・マステロフ/日本語台本・演出 松尾スズキ/10月17日/青山劇場)は、楽しい娯楽作品に仕上がっていた。

 旅のアメリカ人作家クリフ(森山未來)が、列車で知り合ったドイツ青年エルンスト(村杉蝉之介)の案内でベルリンの下宿屋に落ち着き、同じくエルンストに連れられてキャバレー「キット・カット・クラブ」に行く。「キット・カット・クラブ」の歌姫サリー(松雪泰子)とクリフの恋、下宿屋の女主人シュナイダー(秋山奈津子)と下宿人で果物屋のシュルツ(小松和重)の恋、そしてナチスの台頭。

 ナチスが台頭する世の中で悲しい恋に終わるのはシュナイダーとシュルツのカップルで、クリフとサリーは傍観者的存在になっているのだが、それはないんじゃないか? そりゃあクリフがアメリカ人で、サリーが英国人と、”よそ者”だからね、と片付けてしまうのは簡単だが、クリフがバイセクシャルで、「キット・カット・クラブ」が退廃的な出し物のクラブだということが生きていない。ユダヤだけでなく同性愛者もナチスの迫害の標的になったという背景が、客席に伝わっていない。クリフがバイであることをもっと活かしてほしいし、サリーがベルリンに留まろうとしたのも「ショウビジネスが好き」だけではないと思うのだが。好青年のクリフ(森山は本当に好青年)、蓮っ葉なサリーではないはずだよ。主役のはずの二人が弱く見えるのは、こうした描き方にも原因があるのだろう。
 
 世の中の流れにモロに巻き込まれる、秋山のシュナイーダーと小松のシュルツは存在感がある。ほほう、と思ったのがエルンストの杉浦。「キット・カット・クラブ」の場面は、阿部サダヲのMCが、歌って、しゃべって場をさらう。これがエンタテインメントとして実に楽しいのだが、もうちょっと阿部の持つ不気味さが出ると、退廃的になったんだけれど。

 恐らく松尾は、ミュージカル=わかりやすさ、と思っているのではないだろうか?  ミュージカルという思いに捕らわれ、”退廃”が型にはまっちゃったなあ、という感じ。何度も繰り返しても言うが、面白かったんだけどね。今が旬の阿部サダヲを観ているだけでも、楽しいのだが…。
 

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三文オペラ

  世田谷パブリックシアターで『三文オペラ』(作 ベルトルト・ブレヒト/音楽  クルト・ワイル/翻訳 酒寄新一/演出・上演台本 白井晃)を観た翌日、本棚を探して、千田是也・訳の古い岩波文庫版の戯曲を読んだ。
 白井晃はパンフレットの中で、--演劇が「社会を映す鏡」である以上、『三文オペラ』を古典の紹介にしたくない。だから、設定も、言葉も、音楽も、全てをわれわれの身体に近づけた--と語っている。
 なるほど設定も言葉遣いも旧訳とは異なるが、ストーリーはほとんど変わっていない。この戯曲が書かれたのが1928年、ドイツでは熱狂的な支持を受けたという。28年といえば世界恐慌の前年、ドイツではナチスが台頭しつつあった。不安な世の中になると、この戯曲が説得力を持つ、ということなのか…。

 「ハロー・ホームレス」(ホームレスの元締め)の社長ピーチャム(大谷亮介)と妻のシーリア(銀粉蝶)が大事に育てた箱入り娘のポリー(篠原ともえ)は、親に内緒で、対立する窃盗団のボス、メッキ・メッサ-(吉田栄作)と結婚してしまう。ポリーはメッキに”メロメロ”だが、怒ったピーチャムは警察にメッキの所業を訴える。メッキは逃げると思いきや、馴染みの娼婦館で一遊び。そこで昔の情婦ジェニー(ROLLY)の裏切りにあい、監獄行き。
 
 盗みのためなら人殺しも厭わないメッキは悪には違いないが、所詮ただの盗人、小者でもある…。

 そこでまた、パンフレットの白井の言葉。
--『三文オペラ』の「メッキ・メッサー」が背負い込んだ「悪」とは何なのか。
   何故その「悪」を背負い込んだのか。
   「悪」を知ることで、もっと大きな「巨悪」が見えてくる。
   「巨悪」を知ることで、それを作り出す、人間の本質が見えてくる。--

 
 吉田栄作のメッキはカッコよく(なんといっても胸板)、大谷はいつもながら達者だし、久しぶりに聞く銀粉蝶の歌は素晴らしい。篠原ともえのポリーは”純真無垢な可愛いお嬢さん”ではなく、少し影のあるお嬢さん。所詮家業はホームレスの元締めだし、娘を老後の保険代わりと思って大事に育てた親もキライ。親から自立したくてカッコイイ男に賭けてみた、という感じ。一歩間違えれば、蓮っ葉な演技になってしまうところを、篠原は”お嬢さん”に踏みとどまり、上手い。彼女の歌もいい。全体的に歌が巧いカンパニーだ。
 そして、なんといってもROLLYのジェニーだろう。今回は歌詞も手がけているそうだが、歌が巧いのはもちろん、ジェニーの気持ちも伝わってくる。本当に裏切ったのはメッキの方だよ…。
 ROLLYが通路を通ったとき、ふんわりいい匂いが漂い、通路の隣に座っていた私はジェニーの色香をお裾分けしてもらった。

 ところで、私が『三文オペラ』をはじめてみたのは、1993年にシアターコクーンで上演された『阿呆劇・三文オペラ』だった。その時のジェニーは銀粉蝶、演出は串田和美。今回の舞台でシーリアの銀粉蝶を観て、そして客席に串田を見かけた。最近、串田と白井がクロス(交差)していることが、(期待を込めて)気になっている。またこれは別の機会に。

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THE TAP GAY

 オリジナルMUSICAL『THE TAP GAY』(博品館劇場 21日/ 28日まで)

 博品館で毎年お正月に行われていた「THE TAP SHOW  Shoes On!」の中で必ず歌われた「Mr. Bojangles」という曲がある。一人のタップダンサーの生涯を謳った歌だ。

 1920年代から40年代にかけてアメリカで大活躍したタップ・ダンサー、ビル・ボージャングル・ロビンソンは、黒人ではじめてソロを踊り、素顔で舞台に立ち、数々のステップを作り、映画にも出演した。彼の誕生日にあたる1989年5月25日がナショナル・タップ・ダンス・ディとなっている。
 
 このTAPの神様の人生をモチーフに、「Mr. Bojangles」のイメージを重ね合わせたオリジナルミュージカルが「THE TAP GAY」。ビルはTAPの才能に加えて、ダンサーとしてのプライドも人一倍強い。ボランティアや多額の寄付をする人格者でもある。けれどギャンブル好きで、女にもだらしない…。
 もっとも彼の人生をだいぶ脚色したようで、作・演出・振付の玉野和紀は、「フィクションです」と言っているが。

 ビルの才能に惚れ込んだマネージャー、マーティ・フォーキンスに小堺一機。元ボードビリアンというマーティ役にぴったりで、小堺もタップを踏む。マーティー自身は白人だが、ビルが黒人だからという苦労も多い。時代の波も経験する。それでもビルを励まし、支え続けるマーティの包容力とペーソスがいい。小堺の歌は優しくて、心にしみ入る。
  
 ビル役はHIDEBOHと玉野和紀。この二人のTAPの共演、とくにステアタップの共演は絶品。パワフルなHIDEBOHと華麗な玉野の、こんな白熱するシーンは滅多に見られないんじゃないだろうか。このストーリーは、TAPの神様を讃えるだけではなく、世代交代の物語でもあるのだが、玉野の、後輩に伝えたい思い(技)と、まだまだ後輩には負けない自信が伺える。
 
 劇中で「Mr. Bojangles」を歌うのは、tekkan。この人、歌が上手い! ピアノの弾き語りも披露してくれた。出演作を見ると、いままでも観ていたはずなのだが、今後注目しなくちゃね。 

 素敵なストーリーと素晴らしい技の数々を堪能した、といいたいのだが、一つネックが…。博品館劇場は客席の段差が低く、前の席に大きい人が座ると舞台が見えない。とくに足もとを観たいタップだとキツイ。「Shoes On!」のときも観ているし、キャパとしてはちょうどいいんだろうけれど、タップ公演には不向きだ。


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こまつ座&シスカンパニー公演 ロマンス

 世田谷パブリックシアターで上演されている、こまつ座&シスカンパニー公演 『ロマンス』を観た(9月19日)。

 パンフレットの--題材がチェーホフと聞いてどう感じられました?--というインタビューに、井上芳雄が--初めて舞台で日本人役を演じられると期待していたので、少し残念でした(笑)--と答えているのが、可愛い。ミュージカルは、ほとんどの役が外国人。きっと、こまつ座、井上ひさしの作品なら、日本を題材としていると思っていたのだろう。
 ことほど左様に、井上ひさしは日本の話が多いのに、なぜいま、チェーホフ?

 妹、マリヤに松たか子、マリヤの友人で妻になる女優オリガに大竹しのぶ。チェーホフは、少年期を井上芳雄、青年時代を生瀬勝久、壮年を段田安則、晩年を木場勝己が演じる。舞台好きにはたまらない、素晴らしい顔合わせだ。

 チェーホフは家族を支えながら苦学の末医師になり、若い頃からのアルバイト代わりの文学が副業となり、やがて花開く。マリヤは看護助手として、また作家チェーホフの秘書として、献身的に尽くす。彼が好きだったのは、笑いのあるボードビル。書きたかったのもボードビル。しかし彼の作品は、新進演出家スタニスラフスキーによって悲劇として上演されてしまう。

 チラシの文章では、チェーホフとマリヤの関係、オリガとのロマンスがクローズアップされるような印象を受けるが、実際の舞台では、”ボードビル”が前面に出ている。ボードビルというと、私はアメリカンスタイルの”お笑い”を連想していたのだが、パンフレットを読むとチェーホフが愛したのは、ヨーロピアン・ボードビル、--面白い筋立て。演劇的からくりを仕組んだ芝居のこと。--とある。平たく言えば、喜劇か?
 
 観客は喜劇より悲劇を好むという定説があるようだが、あのスタニスラフスキーが、チェーホフの作品を本人の意図をまったく汲み取らずに、悲劇にしていたとは。さらに彼を愛しているオリガも、一番の理解者のはずのマリヤも、その点については理解していなかったとは。それも滑稽、喜劇ではあるが、もし、スタニスラフスキーが喜劇として演出していたら、その後の演劇シーンはいまとは違うものになっていたんじゃないか?
 楽しく笑える喜劇『三人姉妹』、観てみたい。
  
 さて、なぜいま、チェーホフなのか?
 辛い世の中でも、「笑いが心を満たしてくれる」ということなのか? チェーホフがオリガに惹かれたのも、(少なくとも大竹の演じる)オリガが開けっぴろげで陽気な、生活に向かないタイプの女性だったからだろうし。
 もちろん、チェーホフ作品の見直しという目論見も、井上ひさしにはあるんだろう。それから”笑い”そのものについても、と思うのは勘ぐりすぎか。人を幸福にする笑いとはなんぞや? ともすれば暴力的な笑いもあるからなあ。
 しかし彼が愛した”笑い”と、彼が書いた喜劇の”笑い”は、質が違うようにも見える。医師チェーホフが、効用を発見した生活の中の”笑い”はストレス発散、明るい笑いだが、作品の登場人物の滑稽さはある種シニカルな笑いだ。スタニスラフスキーが悲劇として演出したくなるのもわからなくはない。
 
 井上ひさしとチェーホフの笑いの質は、また違う。井上の作品に登場する笑いは、チェーホフが愛した、生活の糧になる笑いのような気がした。(9月30日まで)

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戸田恵子LIVE SHOW「ACTRESS」

 戸田恵子LIVE SHOW「ACTRESS」の東京千秋楽(9月17日 草月ホール)にいく。今年で50歳なのだとか。なんて若いんでしょ。一部は彼女の半生を振り返り、二部は発売されたCD『ACTRESS』の歌を披露していく構成。

 TVバラエティの出演者や声優としての彼女には接していたんだろうけれど、はじめて舞台を観たのは『スイート・チャリティ』だった。メチャクチャ、キュートだったんだよ。薔薇座退団後は加藤健一事務所で、そのあとは舞台に限らず映画、テレビでも大活躍だ。多彩な人だが、私の中では戸田恵子は舞台(ミュージカル)女優。遅咲きだったかもしれないが素晴らしいエンターティナー、テレビではもったいないと思う役もしばしば…。
  
 ライヴでは、あらゆるジャンルの歌と言っていいほど歌い分け、ダンスにコントと大張り切りだ。麻生かほ里、入絵加奈子、平澤智、斉藤直樹と、バックを固める人たちも、これまた豪華。 

  秋元康、三谷幸喜などの大御所は、彼女のコメディアンヌぶりが発揮できる楽曲をつくっていたが、若い才能からの楽曲は、またひと味違う。
 この日、第二部では「V.I.P」の作詞作曲者、植木豪がゲスト出演しブレイクダンス(?)を披露。また、作詞作曲の中村中が「強がり」をピアノ伴奏した。「強がり」は、いつも明るく気丈に振る舞っている女性が、ふと溜息をつく歌。戸田恵子の素顔を連想させ、中村中にも重なる。胸にストレートに響いてくるこの曲に、共感する女性は多いだろう。戸田の思い入れも強いのか、ヒットを願ってか、アンコールの後、映像でまたこの歌が流れた。おかげで涙で顔がクシャクシャだよ。参ったな中村中、参ったな戸田恵子。

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エレンディラ

 中川晃教ファンの私としては待ちに待った『エレンディラ』を観に、猛暑の中、彩の国さいたま芸術劇場へ(8月16日。原作 ガブリエル・ガルシア・マルケス/脚本 坂手洋二/演出 蜷川幸雄/音楽 マイケル・ナイマン)。四時間の長丁場で、出演者は大変だろうが、観客も大変。埼玉で、よくまあ四時間の芝居を打ったものだ。

 南米のコロンビア。祖母(瑳川哲朗)と暮らす少女エレンディラ(美波)は、ある晩火事を起こしてしまい、全財産を失う。その弁償のために、祖母はエレンディラを娼婦にして稼がせる。美しいエレンディラの評判は砂漠中に広まり、彼女のテントの前にはいつも長蛇の列。噂を聞いたウリセス(中川晃教)も一目彼女に会おうとテントを訪ねる。そこで二人は恋に落ちて…。

 ガルシア・マルケスの中編「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」に、短編「大きな翼のある、ひどく年取った男」のモチーフをあわせ、ウリセスを物語の中心に据えた。そうすることによって、エレンディラと祖母の物語から、若い二人の恋愛の物語へと変えている。 
 美波は、娼婦エレンディラを文字通り体当たりで演じている。絶望したときの虚ろな目、喜びに満ちた輝く目、冷たい氷のような目、この人の目の力は素晴らしい。
 ウリセスの歳は17才。少年から青年に移行する時期の自信と不安が入り交じった初々しさは、中川晃教の真骨頂だ。加えて不思議な力を持っているという役柄も彼にあっているし(この不思議な力は、現地のワユ族に由来するもので、エレンディラと祖母もワユ族の血をひく)、ミュージカルではないものの歌もあるし、彼の魅力は十分に出ている。

 二人の恋のシーンはとても綺麗だ。美しいデュエットも聴かせてくれる。でも、やっぱりこの物語は、エレンディラの祖母の物語なのだ。白鯨と表現される体形とパワー、ワユ族の誇りと屈折。なぜこんなに強欲なババアになったのか、若く美しい二人より興味をかき立てられる。中川も美波も素晴らしいが、それでも「これは、瑳川の舞台だ!」と思うほど、彼の演技に魅了された。この役、生身の女が演じるのは難しそうだ。

 クライマックスで、エレンディラは祖母から逃れたい一心だ。そこから二人の愛を語るには、脚本としても無理があったのではないか。小説の結末が、芝居の結末でもよかったのに。そのほうが、エレンディラの業というか、逃れられない血が、より浮き彫りになっただろう。
 この結末はファンサービス? 最近言われている”わかりやすさを求める観客”という現象のなせる技ですかね?

 とはいうものの、なかなか見応えのある舞台。南米の物語はあまり観る機会がないので、純粋なキリスト教文化とまた違う視点が面白い。
 飄々とした写真師のあがた森魚が、はじめはどうしてこんなところに?と思ったけれど、意外や緩衝材的な存在。アンサンブルでは山崎ちかがいい。この芝居に、この人のエロさは貴重だ。 

  

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砂利

  もう終わってしまったけれど、劇団ダンダンブエノ 双六公演「砂利」を観た(スパイラルホール 7月30日 昼)。作 本谷有希子/演出 倉持裕

  本谷有希子の作品ははじめて観た。なるほど、面白い人間関係を描いている。

 舞台は雪国の資産家の家。引きこもりの兄(坂東三津五郎)と、兄の面倒を見る弟(近藤芳正 )。病気療養している居候(山西惇)、兄の恋人(田中美里)も同居している。兄は子どもの頃虐めた人間が仕返しにくるのを恐れている。そこへ、箱を持った男(酒井敏也)や恋人の姉(片桐はいり)も現れて…。
 たしかに兄はナイーブなのだが、彼を取り巻く人たちもかなりエキセントリックで、みんな兄の引きこもりの状況や恐怖心を利用して、自分の存在を確かめているところがある。いや、本当のキーパーソンは兄の恋人なんだろう。うーん、これは共依存の話? 
 しかし多かれ少なかれ、人間関係はこういう危ういバランスの上に成り立っているものなのだろうと、妙に納得してしまう。

 タイトルの「砂利」は不信な侵入者がわかるように、庭に敷いた砂利からきている。屋根には雪が積もっているのに、雪かきをしているのか、庭は一面砂利なのだ。
 板東三津五郎が、こういう小劇場系の芝居に出るとは思わなかったが、こういう役を演るのも意外だった。ちゃんと小劇場の出演者たちに溶け込んでいて、違和感がないし、巧かった。他の役者もいい。まあ、私は近藤が目当てなのだが。

 ダンダンブエノは毎年1回公演を打っている。ところで、なんで双六公演なんだか? 劇団の6回目公演だから語呂合わせなだけか。7回目はなに公演?

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ザ・ヒットパレード ショウと私を愛した夫

 7月27日に観た『ザ・ヒットパレード』(脚本 鈴木聡/演出 山田和也 テアトル銀座)。楽日近くに観たのを後悔している。もっと早く観ればよかった。そしてもう一度観たかった。

 渡辺プロダクションを作った、渡辺晋とミサ夫妻の物語。夫妻の足跡を辿ることで、日本のショウビジネスの歴史を見せる。圧倒されるのは劇中の音楽で、昭和のヒット曲をこれでもかこれでもかと披露し、まさにヒットパレード。音楽監督の宮川彬良は、渡辺晋と数多くの仕事をした宮川泰の息子。
 口ずさめる歌が多いのも楽しみの一つなのだが、ビックリするのは、ザ・ピーナッツ役の堀内敬子と瀬戸カトリーヌの歌だ。堀内が歌がうまいのは知っていたけれど、瀬戸がハモるのも知っていたけれど、ここまで巧いとは!
本物のザ・ピーナッツかと思うぐらい、歌い方も似ている。いや、この二人の歌でショウをやってほしいほどだ。
 それにミサ役の戸田恵子、ミサの親友役の北村岳子と、女性陣の歌の迫力といったら! ミュージカルに対して、変なほめ方だけれど、気合を入れて歌の巧い役者さんを揃えましたね!
 もちろん戸田恵子は、可愛くしっかり者のミサにピッタリ、はまり役だ。
 若手男性コーラスグループRAG FAIRのメンバーを起用した意図もわかった。それぞれが個性的だから演技もこなせるし、歌はお手のものだし。
 ここまで歌がうまい役者が揃っていると渡辺晋役の原田泰造は大変だろうと思うし、そして実際少々歌は弱いのだけれど、じゃあ、この役にあっている人は誰か考えてみると、やっぱり原田が適役なのだ。その包容力が魅力的だった。

 テレビが全盛になったとき、本物の芸が求められなくなる。なんて皮肉なんだろう。私は、本物の芸に出会いたいから、ライヴ(芝居もコンサートも)通いはやめられない。


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夏の夜の夢

 子供のためのシェイクスピアカンパニー2007『夏の夜の夢』を観た(グローブ座 7月22日)。1995年から毎夏恒例のカンパニーだか、この有名な戯曲はまだ上演していなかったのね?

 オープニングの舞台は、机と椅子で造られた工事現場。そこで作業をしている黒コートの人々が、森で公爵の結婚式の余興の芝居を練習している職人になり、物語に誘われる。
 アテネの公爵シーシュスとアマゾンの女王ヒポリタの結婚式が迫ったある日、貴族の娘ハーミアはライサンダーと森へ駆け落ち。ハーミアの父から結婚の了解を受けているディミートリアスと、ディミートリアスを慕うヘレナが後を追う。森では、妻タイテーニアと喧嘩をした妖精の王オーベロンが、タイテーニアと若者たちに魔法を使う。芝居の練習をしていた職人たちも巻き込んでの、”夏の夜の夢”。
 
 今年はカンパニー常連の役者、間宮啓行が参加していなくて、間宮ファンとしてはちょっと淋しかったのだが、幕が開いたら、もう夢中。
 『夏の夜の夢』はエピソードが幾つかあるし、人間界と妖精の世界が混ざり合ったりと、ともすれば話がゴチャゴチャしてしまうのだが、山崎清介がタイテーニアを演じたことで、タイテーニアのパートはコメディの色がより一層濃くなり、若者の恋のエピソードが前面に出た。伊沢磨紀の求心力もあって、とくにヘレナの恋心が鮮やか。ハーミアのキム・テイもいい。この二人、戯曲とは背の高さが逆だなと思っていたら、喧嘩の場面で、戯曲に沿ったハーミアの台詞をヘレナが訂正していた。
 「?」と気になったのがパックの解釈。オーベロンの家来で、悪戯好きでおっちょこちょいの妖精パック役を、大内めぐみが頑張っているのだが、うーん…。パックは恋心を気にも留めないような、自分の性をも感じさせないような中性的な存在か、あるいはエロティックな両性具有的な存在か、どちらかだろう。
 ところが大内は、甘く優しい女の子らしい雰囲気(容姿)の女優さんなのだ。パックが女性の性に傾くのはどうなんだろうと思うのだが…。

 とはいえ、十分楽しんだ『夏の夜の夢』。来年は『シンベリン』の再演とか。来年も、素敵なシェイクスピアを期待している。

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宝塚BOYS

 『宝塚BOYS』を観た。(原案 辻則彦/脚本 中島敦彦/演出 鈴木裕美/テアトル銀座byPARCO/6月19日)

 戦後まもなく、あの「宝塚歌劇団」に男子部があったという、実話から生まれた話。

 男子部設立のきっかけになった男子の加入を問い合わせた上原金蔵(柳家花緑)。宝塚のオーケストラに在籍していた太田川剛(三宅弘城)、旅芸人の息子の長谷川好弥(佐藤重幸)、ダンサーの星野丈治(吉野圭吾)らが集まってくる。劇団側の担当者は池田和也(山路和弘)、わけありの寮母には宝塚OGの初風諄。

 男子部の行く末は、現在の宝塚をみれば、押して知るべし。やり場のないどうしようもなさが強調されすぎる印象はあるものの、軍隊を経験した者、徴用先で原爆のキノコ雲を見た者、父親が戦死した者と、それぞれが戦争の傷を負っている若者たちが見た夢は、切ない。挫けそうになったときに思う戦死した人たちのこと。とくに病気で兵役を免れた者(ネタバレになるので役名は書かないが)の、いま生きていることの申し訳なさは胸をつく。

 パンフレットの紹介は、実家が電器屋の竹内重雄を演じた葛山信吾がトップに来ているのだが、これは知名度順? 竹内はわりと穏やかな仲間の潤滑油的な役柄だ。実質的な主役であり狂言回しは、柳家花緑。この人、ピアノを弾くのは知っていたけれど、こんなにうまいとは。ダンスもへえと感心して観ていたが、そうだ、お兄さんが元バレエダンサーの小林十市なんだと思い出した。吉野圭吾演じる星野のモデルは、西野バレエ団創立者の西野皓三だろうか。仲良しグループに水を差す実力者という、ちょっといい役だし、ショウは吉野の独壇場だ。この人のダンスはほんとうに美しくて、吉野ファンの私としては満足。
 稽古場を去る花緑の佇まいにも好感。この芝居に限らず、この人の芸は、見なきゃ損かも。

 実在した男子部がうまく行かなかったのは、やはり「宝塚歌劇団」だから? その頃、東京のほうの日劇ダンシングチームはどうだったんだろう。

 

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国盗人-W.シェイクスピア作「リチャード三世」より-

 世田谷パブリックシアター開場10周年記念プログラム『国盗人』を観た。英文学者の河合祥一郎の書き下ろしで、演出・主演は野村萬斎。野村萬斎はパブリックシアターの芸術監督でもある。(6月24日 プレビュー公演/7月14日まで)。

 『リチャード三世』は人気があるようで、1月に観た『朧の森に棲む鬼』も『リチャード三世』のエッセンスをとり入れた作品だった。あちらは歌舞伎、そして『国盗人』は”狂言の発想で新に構築した作品”(パンフレットから)だ。

 焼けこげた能舞台。どうやら戦場の跡で、やってきた白い服の女(白石加世子)が、「夏草や 兵どもが 夢の跡」とつぶやくと、『リチャード三世』の世界に入っていく。時は平安時代末期だろうか。リチャード三世は悪党だとすぐわかる悪三郎と言う名前だ。登場人物を整理したり、狂言的な趣向を取り入れているものの、『リチャード三世』のお話し(台詞も)に忠実。

 野村萬斎は、現代劇的な話し方と思えば狂言の台詞まわしを操り、まさに言葉巧みな悪三郎。サービス満点で、マイク持って歌うとは思いませんでした。悪三郎はリチャード三世と同じく、脚を引きずっているはずなのだが(左手も不自由らしい)、舞ったり飛び跳ねたりという所作もある