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『2011年  新聞・テレビ消滅』

 佐々木俊尚『2011年  新聞・テレビ消滅』(文春新書)を読んだ。

 佐々木氏は、元毎日新聞の記者で、インターネット分野を中心に活躍するフリージャーナリスト。センセーショナルなタイトルだが、新聞、テレビの衰退でマスメディアがなくなるだろうと予想している。ITが優位に立ち、ミドルメディアの時代が来るそうだ。 新聞はその衰退が言われて久しいが、最近はテレビの内容も広告主もずいぶんと変わった。それから、いうまでもなくインターネットはとっても便利。素人目にもよくわかる。購買と広告がふるわないメディアは衰退する。その通りだろう。題名にひっぱられると驚くが、マスコミとしての新聞、テレビはなくなっても、新聞、テレビという形態はなくならない。

 面白かったのは、中堅の新聞記者が育っていない、という話。失われた10年の就職氷河期に新人を採用しなかったツケが、いま来ている。そうか、だから報道の質も落ちるのか。

 でも私の周りには、相変わらず「テレビはNHKが好き」「新聞は4紙購読」というもいる。その人たちがネットを利用していないかといえば、そうでもない。ヘビーユーザーではないけど、ネットを拒否している人たちではない。それに、私が経験した市区レベルの市民活動では、インターネットなんてほとんど役に立ちはしないし(役立つのだが、使わない)、評価されない。メール連絡さえレスが遅いのなんて日常茶飯事だし。その格差につくづく驚くのだが、マスメディアとしての新聞、テレビが無くなったからと言って、インターネットに興味がない人がインターネットをすぐ使いはじめるとは思えない。
 新聞、テレビのユーザーは、それがマスメディアだろうとミドルメディアになろうと、たいして気にしないのではないだろうか。

『化粧する脳』茂木健一郎  

 先日、証明写真を撮りに、地元の写真館に行った。昔、証明写真はちいさなカメラ屋さんで撮ってもらったが、いまはそのカメラ屋さんはない。あるのは写真館か、街角のセルフサービスのブース。自分一人で撮るのは嫌だったので、「おおげさな」と思いつつ写真館に行った。
 卒業記念の前撮り、はたまた時季外れの七五三の記念写真の撮影に混じって、証明写真のお客が入る。変な感じだ。「就活セット10枚焼き増し」というパックがあった。私が学生時代に就職活動(就活とは絶対に言わない時代。それだけで落ちそうだと今でも思う)をした頃は、やっと大卒女子を採用する一般企業が出てきた頃で、「就職したいなら短期大学か専門学校へ進学しなさい」と言われたものだ。景気は悪くなかったが、大卒女子の就職は狭き門だった。でも、私も周りの友達も、写真を10枚も使わなかった。その後の再就職のときも。いまがそれだけ不景気なのだろうし、機械的に弾かれないからかえって的が絞りにくいこともあるんだろう。
 ”就活”でない私は「証明写真2枚付き」を選んで、カメラウーマンのお姉さんの前に座った。「はい、少しほほえんで」「はい、口角をあげて」。若干の修正付きで仕上がってきた写真は、自分の顔としては「まあ、こんなものでしょう」で、母に似ていた。
 
 4年前に病気をして、その薬の副作用がいろいろあった。自分の顔の印象が短期間で変わるというのは嫌なものだ。お医者さんは治療が終われば元に戻ると言ったが、復活には時間がかかった。自分の印象では8割方戻ったが、2割は戻らなかった。それでも、こうして写真を撮ると母に似ている。昔から、私は母親似だと言われていたし、少々早く老けたということか。「眉が薄くなって」と嘆いたら、友人Aさんに「私なんて若いときから薄い」と一笑に付された。
 そういえば、友人Bちゃんが結婚式のときに新婦としてのお化粧をしてもらうのが嫌だったと言ったのを思い出した。「とくに眉を整えられるのは、自分じゃないみたい」。彼女はキリリとした眉をしていた。ウエディングドレスだったからキリリとした眉でも似合ったのにね。
 元気な女性は眉がキリリが基本だ。ほら、イモトだって、あんなに太い眉が似合っているのは、すばらしい珍獣ハンターだからではないか。病気が治っても、病人くさい顔では、社会復帰のハードルは高い。また、病人くさい顔では、人は話をまともに聞いてくれない。外見がオバサンくさい(生活くさい)とバカにされる、あれと同じ。人前で話しをしたときの写真を見て、自分がどのように見えるのかも、意識した。一過性ならまだいいが、写真に残るし、いまではビデオもあるから”印象”というのはコワイ。リピートされる第一印象。

 若い頃から、綺麗になりたいという 願望は人並みにあるものの、同時に面倒くささも感じている。油断すると日焼けがやけどになるからスキンケアには少々気を付けてはいるが、メイクアップは身だしなみ程度。もちろん私にだって勝負化粧をする日もあるが、健康に見えることが基本。

  昔は、卒業を控えた高校の女子に、新社会人の身だしなみなとして、メイクアップの仕方を教える講習があったと聞く。いまでも女子校の中には、マナー講座としてメイクアップを教える学校があるそうだ。私自身はそんな講座とはまったく縁がなかったが、お化粧=大人の女性の身だしなみという概念は、すり込まれていたと思う。大学に入ったころから、お化粧をはじめた。

 テレビで、インタビューを受けていた市川海老蔵が、インタビュアー の女性アナウンサーに向かって「雑な化粧ですね」と言っていた。見ていた私は唐突に「雑な化粧」という言葉が出て「へ?」と思ったが、お年頃の女性アナはひるみもせずに「そうですか。いつもより念入りにしてきたつもりなんですけど」と答えた。
 それ以来、鏡に向かって化粧をしているときに、「雑な化粧」という言葉がたまに浮かぶ。私のメイクは、たぶん雑。
 デスクワークならお化粧もそんなに崩れないだろうし、化粧直しもいつでもできるだろうから、いつも綺麗でいられるだろうが、外出先ではそうそうお化粧はなおせない。ガーデニングの仕事をしているCさん。庭仕事をした後は汗でお化粧が崩れているが、汗を拭きながら笑っている顔に、赤い口紅が映えて魅力的だ。
 相棒Kちゃんは仕事帰りに貧血だと思われて、電車で席を譲られたそうだ。「大丈夫といっても、譲ってくれた。どうしてだろうって考えたら、お化粧直しをしなかったから、口紅も頬紅も落ちていたんだね」。大人の女性はお化粧をするものと相場が決まっているから、色味のない顔=具合悪い人という先入観が働いたのではないだろうか。それ以来「口紅と頬紅はちゃんとすることにした」そうだ。

 ある日、Dさんが大きなマスクをしていたので、「風邪?」と訊いたら「きょう、お化粧してないの」という。目鼻立ちがしっかりしていて可愛い人だ。たしかに彼女はきちんとお化粧をしているほうだけれど、化粧直しはあんまりしないようで、素顔に近い顔も何度となく見ている。その日は午後からパーソナルカラー診断を受ける予定で「お化粧をしないできてください」と言われたのだとか。「スッピンでも十分綺麗なのに!」と言ったら「やっぱり気になる」と。「プール行くようになったら、すっぴんも気にならないわよ」。
 ウチから10分もしないプールに通うとき、水中歩行なので顔を水につけるわけではないが、私はほとんどスッピンだ。行き帰りに日焼け止めを塗るのは、お化粧といわないだろう。でも、たぶん、プールが駅前にあったら、10分の距離でもお化粧するかも。家族とプール以外で、スッピンの顔を一番みせているのは、宅急便のおにいさんだ。
 といってもそれは、全部私のオフの時間。Dさんとあったのは彼女の仕事場で、他の人もたくさんいたから、彼女が意識したものもわからないではない。
 誰に訊いたか忘れたが、在宅で仕事をしている人でも、お化粧をしてからその日の仕事をはじめる人がいるそうだ。たしかにウチが仕事場の場合、気持ちの切り替えが難しい。お化粧をするとシャキッとするのだろう。
 
 オン・オフの切り替え装置としての化粧。
 そして、身だしなみとして位置づけられている以上、女性は化粧をしたほうが、社会参加しやすい。周りもスムーズに受け入れてくれる。社会参加のパスポート、とでもいおうか。
 「就活」の証明写真にだって薄化粧は欠かせない。女性のほうが見た目で判断されやすい、そのハンディを克服しますよ、といわんばかりに、どこでも証明写真のサンプルは女性だった。

 講師をしている文章講座(高齢者のミニデイサービス)には、いろんな受講者さんがいる。中には、大病をされた方や、いまも病気とつきあっている人も。でも、女性はみんなお化粧をしている。「いつまでも美しくありたい」など、人それぞれ理由はあるだろうが、まずは身だしなみとして。世間と隔離された病人、老人ではなく、文章教室に通うことで地域交流している、社会的な人間であることの証しなのだと、私は思う。

 そんな、まとまりのつかないことを思いながら、茂木健一郎『化粧する脳』(集英社新書)を読んだ。 

リハビリが目的ではない

 先日アップした記事『訳者解説 新教養主義リターンズ』に、ご意見をいただいた。

 
  温暖化や排出削減そのものを自己目的化せず、という山形の指摘にも、大きく頷く。私が関わっているユニバーサルデザインという分野も、ユニバーサルデザインが「なるべく多くの人がよりよい暮らしをするために」という目的のための一手段のはずなのに(ここがわからない研究者がいたからビックリなんだけど)、「高齢者、障碍者とともにどういう社会をつくっていくのか」というヴィジョンは置き去りにされているように思えてならないのだ。

 というところに同意する、というものも。

 これは、いろんなコトに置き換えられる。 
 たとえば、怪我をしたり、障碍をもった人のリハビリテーションが目的化してはならない。ゆっくりお風呂を楽しむ、とか、友達とあってお茶をする、とか、映画を観るとか、”心豊かな生活”を送るためのリハビリテーションなのだ。

『訳者解説 新教養主義リターンズ』

東京にみぞれ混じりの初雪が降った12日。久しぶりに、冷え冷えとした電車に乗った。三鷹発の東西線に隣の吉祥寺から乗ったから、まだ暖房も効いていなかったし、乗客もまばらだった。「東京の寒さでこんなことをいうのは申し訳ないけれど、もうちょっと暖房強くしてほしいな」と思ったときに、ふと「先進国の多くの人々は、温暖化議論や排出削減が、なにやら優雅なライフスタイルの問題だと思っている。」というハナシを思い出した。


 山形浩生は『訳者解説 新教養主義リターンズ』(バジリコ)の中の、ビョルン・ロンボルグ著『地球と一緒に頭も冷やせ!』の解説で、こんなことを言っている。

 先進国の多くの人々は、温暖化議論や排出削減が、なにやら優雅なライフスタイルの問題だと思っている。みんなちょっと自動車を控えましょうとか、ちょっと電気を消しましょうとか、裏紙を使いましょうとかスローライフとか。でも実際は違う。それは社会全体に対し、もっと失業者を増やせとか、もっと早死しろとか言うに等しい話だ。そして、実際そうした選択を自主的にではなく外圧によって強制されている人々がいる。それでいいんだろうか。あなたは排出削減軽減で生活水準が低下する人々のところへ行って、おまえたちは貧しいままでいろと言えるだろうか?
 この前に、山形は本業の開発援助で赴いた、インド洋の島国の事情を語っている。そして、結びはこうだ。

 本書を読んでみなさんが少しでもそうしたことに思いをはせてくれれば、と思う。温暖化や排出削減そのものを自己目的化せず、それがそもそも何のためだったのかを今一度考え直してくれればと思う。温暖化の危機を訴え、排出削減を唱える人々の、善意は否定すべくもない。だがそれは何のためだったんだろう。人々の苦しみや被害を削減し、なるべく多くの人によりよい暮らしをしてほしいから、ではなかっただろうか? 本書で人々がその善意の原点にまで立ち返ってくれれば、これに勝る喜びはない。
 
 そうなんだろうな。地球上のすべての国を一律○%というやり方は乱暴だし、排出削減が錦の御旗っていうのもなにやらキナ臭いというのは、私のような環境問題に疎い者でも、もう感じている。なにを隠そう、ゴアの『不都合な真実』に驚いたのだけれど、かといって私自身の日常はたいして変わっていない。
 温暖化や排出削減そのものを自己目的化せず、という山形の指摘にも、大きく頷く。私が関わっているユニバーサルデザインという分野も、ユニバーサルデザインが「なるべく多くの人がよりよい暮らしをするために」という目的のための一手段のはずなのに(ここがわからない研究者がいたからビックリなんだけど)、「高齢者、障碍者とともにどういう社会をつくっていくのか」というヴィジョンは置き去りにされているように思えてならないのだ。

 ロンボルグの『地球と一緒に頭も冷やせ!』を、読んでみようかな。

 この『訳者解説』という本は、山形が訳した本に書いた解説を集めたもので、解説だけがずらりと並ぶ。本来ならば解説は本文とセットで読むものなんだろうけれど、独立した読み物として読者をひきつける。

 ぼくの解説は、よいところは十分に説明すると同時に、ダメな部分についても(営業的な配慮を度外視して)きっちりと批判するのが売りではある。
 
 山形には『新教養主義宣言』(晶文社・河出文庫)という名著があって、とくに冒頭の「プロローグ 心ときめくミームたちをもとめて」には考えさせられることが多い。「ホントにわかってるの?」という声がどこからか聞こえてきそうだが、歯が立たないのは認めた上で、私にとっては思考が行き詰ったときに読むと堂々巡りから抜け出せる特効薬で、希望がわくのだ。
 山形は、ときとして文体が乱暴(態度がでかい)と感じることもあるが、視点はとても誠実で、前向きだ。 

 


のだめカンタービレ 最終楽章 前編

 映画「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」を観た。

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 前売りチケットを買って、待っていたのだよ。その割には、お正月過ぎて空いてから観てるんだけど。

 原作は、二ノ宮知子のコミック。コミックをほとんど読まない私が全巻買い揃え、実写版テレビに夢中になった(アニメはパスだった。顔が微妙に違うような気がしたし、声も好きじゃなかったので…)。映画は実写版テレビの続きから、お話が始まる。俳優もテレビと同じキャストだ。
 
 東京の音楽大学で出会った指揮者を目指す千秋真一(玉木宏)と、破天荒なピアノを弾く野田恵(上野樹里)の恋愛と、音楽家としての成長を描いている(一足先にコミックは物語が完結している)。ヨーロッパ編になると、学生ののだめより、若手指揮者として一歩を踏み出す千秋のほうに、ストーリーの比重が移る。
 この映画でも、一番の見所は、伝統はあるが今は潰れそうなマルレ・オーケストラの常任指揮者として、オーケストラを立て直す千秋の奮闘ぶりだ。指揮する玉木は、スマートと言うか、エレガントと言おうか、男性でも”美しい”という言葉がピッタリ。ちなみに、マルレ・オケのコンサートマスター役、マンフレッド・ヴォーダルツがいい味を出している。
 のだめの上野樹里は相変わらず可愛いしギャグも満載だが、後編の大活躍を期待したい。

 人形の吹き替えや、フランスでフランス人が日本語をしゃべるのも、違和感がないどころか、コミカルに活きていて面白い。
 
 千秋指揮のベートーベンの交響曲第7番で幕が開き、そこがウィーンの楽友協会。なんて贅沢な。楽友協会が映画のロケで使われるのははじめてなのだそうだ。オープニングに「ベト7」、エンディングの「ラプソディー・イン・ブルー」はテレビと同じ。そのほか、ラヴェルの「ボレロ」、デュカス「魔法使いの弟子」、モーツアルト「ピアノソナタ第11番<トルコ行進曲>付き、ショパン「子犬のワルツ」、そして武士=黒木クン(福士誠治)のテーマのようなモーツアルト「オーボエ協奏曲」、etc. 中でも一番印象に残ったのは、新生マルレ・オケのお披露目のシーンで使われたので、チャイコフスキー「序曲 1812年」。感動的で、見終わったあとも、祝典のメロディと大砲が頭の中で鳴り響いていた。

 映画が前編、後編に分かれたことは、二人の成長をじっくり描き(そこにはクラシック界の舞台裏も垣間見える)、音楽を聴かせることも考えれば仕方がないと思う。かといって、映画でなければこれだけのヨーロッパロケはできなかっただろう。
「最終楽章 後編」は4月に封切り。「前編」のエンディングの後に、「後編」の予告編が流れて、気を持たせるのだ。はやく観たいな。 


図書館の問題

図書館に寄ったら、玄関に盗難防止装置のゲート(CDショップなどでよくみかけるもの)が設置されていた。つい10日ぐらい前に行ったときはついていなかったんだけどね。
 カウンターで応対してくれた職員に「とうとうゲートが付いちゃうんですね」と言ったら、「そうなんです。3月から稼動するんですよ。あんまり盗難が多くて、やむに止まれず」。二人して溜息をついた。昨年の今頃、監視カメラがついた。それでも盗難は、減らなかったということだろう。

 心ない人たちのために規制や監視が強化されていくのは嫌だが、仕方がないか、とも思う。

 自治体の図書館運営も、考え直したほうがいい。なぜ、図書館は無料なのか。いくらかの受益者負担があってもいいではないか。年会費制とか、カード発行時に幾らとか、延滞金を徴収するとか。もちろん免除規定があっていいが、わずかでも費用を負担して「自分たちの図書館」という意識を共有したほうがいいのではないだろうか?

 教育機関だから無料であるという理屈は、どうなんだろう。原則無料のはずの美術館も博物館も有料だ。図書館と博物館はどう違うのか? 「本を読む機会はすべての人に与えられなければならない」そうだが、たとえば、年会費1000円を徴収したところで、図書館を利用する本が好きな人が(当然図書館を利用しない本好きもいる)、図書館に足を運ばなくなるとは考えにくい。大都市のいくつかの自治体が歩調をあわせて同時に踏み切れば、有料化もあり得るのではないだろうか。

自治体の図書館でもベストセラーにリクエストが集中し、1年待ち、2年待ちも珍しくないそうだ。そんなことも含めて、図書館の状況を貸本屋のようだと批判する人もいる。
 今日借りてきたのは絶版になっている本。最近は絶版本が多いから、書店で新品をみつけたくても苦労する。あと5年ぐらいしたら、地域の図書館には「当時のベストセラー本」しかなくて、新刊書店でも「当時のベストセラー本」が文庫になっていて、という時代になるかもしれない。ベストセラーにならなかった本は、どこで探せばいいのか? 古本屋か? もしかしたらそんな現象は、もうはじまっているのかもしれない。

 図書館の問題は、実は図書館の問題ではなく、「本」を巡る問題なんだろう。もっといえば、長いこと、自分たちの文化や社会を大切にしてこなかったツケだ。そんなこと、現場の人はとっくにわかっているんだろうな。