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2014年11月

障害理解を促すには…

  とあるアンケートに答えていたら、「障害理解を促すにはどうしたらよいと思いますか」という自由筆記の設問があった。もう、ずっと問われている課題だが、ずっと問われているということは決め手がないのだろう。

  2014年10月25日付日経新聞夕刊には「相次ぐ視覚障害者への暴力『歩きスマホ』で衝突も」という記事が掲載されていた。全盲の女子生徒が蹴られたり、盲導犬が刺されたりというすでに知っている事例の他に、――スーパーでベンチに座っていた全盲の女性が、脚が引っかかったという男に顔を殴られ、重傷を負った――という事例が載っていた。歩いていたときのトラブルより、もっと酷いではないか?
 
 こんな話をきくと、2020年の東京オリンピックに向けておもてなしだのユニバーサルデザインを整備などと流暢なことを言ってられず、待ったナシの状態なのだと思う。高齢化もどんどん進んでいるし。

 前出の記事に、――筑波大学の徳田克巳教授(障害理解論)は「障害への無関心や無理解がトラブルにつながっている。子供のころからの教育が重要だ。なぜ盲導犬や点字ブロックが必要なのか、障害者の日常生活を学べば、互いに違いを認め合い多様性を尊重できるようになるのではないか」と話している――とある。

  それはそうなのだが、私は、前提が大事なのだと思う。アンケートにも書いたが、日本社会に、障害者の権利条約やWHOで採用されている、国際的な社会モデルの障害概念が根付かないと、障害理解は難しい。

  「障害」の表記を「障碍」にするか「障がい」に開くかという議論を、まだしている自治体や福祉団体がある。もしかしたら障害者も、まだ「障害」に抵抗を持っているのかもしれない。「障害」は差別だとするその理由は、「社会に害をもたらす者」(社会にとって不利益な存在)の意味に取れる、ということだ。長い歴史の中では、そういう存在だとされてきた。まだそういう見方は根強いだろうし、社会がそう見ていれば、当事者も自分たちのことをそう考えざるを得ない。
 だが、国際社会で採用している社会モデルは、障害を、個人+社会環境に起因するものと捉えて、障害者は社会との関わりの中でなんらかの障害(困難)を持つ者と考えられている。そして社会モデルでは、いつでも誰でも人は障害を抱えることがあるとしている。幼少期や高齢期のことを考えれば理解できるだろう。高齢期が長くなるということは、障害を持つ時期が長いということだ。困難ということで妊娠、病気や怪我をした期間も入る。

 つまり、社会モデルは、社会(周囲)もちょっと考えてみる必要がある、と言っているのだ。駅のバリアフリー化は社会モデル。不便な人がいるんだから、もっと多くの人が使いやすいようにしましょう、ということでハードが整えられた。いま運用面(ソフト)が旧来の価値観のままで、つまり一人ひとりに社会モデルが浸透していない。

 たとえば白杖や点字ブロックのルールを学ぶときに、その前提に、「社会の環境が少し変われば社会全体として困難を抱える人が少なくなる=自分も相手も住みやすい社会になる」と考えるのか、「その人に個人的な温情として配慮する」と考えるのかでは大きな違いがある。単なる温情、親切心だったら「余裕がないから配慮できません!」、それで終わりだ。
 日本社会は、障害は個人に起因するという個人(医療)モデルが根強い。
 社会モデルをまず基本概念として啓発して「個々の場面でどんなことが困難なのか」を教えなければ、期待する障害理解は得られないだろう。 

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