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2010年1月

災害時の支援(筆談)

 災害時に、弱者をどのように支援するか、という話。

 耳が聞こえない人の支援について「難聴の人は補聴器をつけて逃げられないこともあるので、筆談をしてください」と行政の人が言ったときに「耳が不自由な人は外見から判断できないから、誰がそうなのかわかるように、バッチをつけてほしい」という声が、災害支援ボランティアの人たちからあったそうだ。

「そういう問題なのかな?」と、その場に居合わせた人が言う。

 そういう問題じゃないだろう、と私も思う。 
 善意の提案なのだろうし、バッチをつければそれなりの効果があるかもしれないが……。

 たぶんボランティアさんたちは、妊婦さんのマタニティマークから連想したのではないだろうか。
 厚生労働省は首都圏の鉄道各社と協力して 「おなかに赤ちゃんがいます」というマタニティマークを配布している。妊娠初期は不安定な時期でお母さんも身体が辛いのに、外見からはわからない。電車に乗ったときに、具合が悪くても席を譲ってもらえないことからはじまったようだが、職場や飲食店などの環境づくりにも広がっているそうだ。ただし、マタニティマークをつけることは勇気が要る、という人もいる。
 
 災害時に、マタニティーマークや”難聴バッチ”を持って逃げられるとは限らない。その災害にあったことで、爆音にさらされたり、精神的なショックで難聴になったり、声が出なくなる人もいるかもしれない。それに、外見からわかりにくい障碍、コミュニケーションをとりにくい障碍も、難聴だけではない。けっきょく自分でアクションを起こせるか否かが鍵だろう。もし難聴バッチを配ったとして、”難聴バッチ”というマークを自分でつけられる人は、自分でアクションを起こせる人なのだと思う。

 問題は、アクションを起こせない人だ。避難経路で、避難所と違う方向に歩いている人を見たら声を掛ける、言葉が伝わらなかったら筆談をする。避難場所で、炊き出しなどのアナウンスがあったときに、一人ぽつんと座っている人がいたら、声を掛ける。声をかけた相手が声を出せなかったら、筆談をする。混乱期には、そうやってケアしていくしかないのではないか? 避難所に行く途中では、筆談をしている余裕さえないかもしれない。

 マークに頼ってしまっては、本当に必要な人への支援がこぼれ落ちてしまう。マークではなく、その人の行動で、支援が必要かどうか読み取ってほしい(それにお年寄りの多くは難聴と思っていたほうがいい)。
 また、善意から出た提案だろうが、マークをつけることは、障碍者にとっては差別の目にさらされるリスクを伴う、ということも、支援する人たちは考えてほしい。

 避難訓練をしてさまざまな検証をし、いざというときのために備えることは有意義だ。だが、あまりにシステマティックに手順を構築しマニュアル化すると、逆に、臨機応変に動けなくなる危険があるということも考えなくてはならない。私はマークに反対だ。

 この話を聞いた日、自分の非常持出袋にメモ帳とボールペンを入れた。誰かを助けるためだけではなく、自分自身が声が出なくなったり、耳が聞こえなくなることもあるだろう。筆記用具を持っていれば、周りの誰かとコミュニケーションがとれる。非常用持出袋を持ち出せるとは限らないし、そんな余裕があるかわからないが、まずはそこからだと思う。 
 行政も、推奨する非常用持出袋の中身に筆記用具を加え、そういう広報をおりにふれて一般市民にも行えば、支援ボランティアの登録をしていない市民にも「筆談が必要な人がいる(自分もなる可能性がある)」ことが徐々に周知され、セイフティネットが広がるのではないだろうか? 


<追記>
 後日またこの話題になったら、「”マーク”をつけるかどうかは、古くから出ている問題」なのだそうだ。そんなにマークをつけたいのなら支援者が腕章なり、バッチをつければよろしいのでは。「手話 ]とか「筆談」とか。そうすればニーズがあって、自分でアクションを起こせる人は、その”マーク”をつけた人を探せるでしょう? デパートでも「手話ができます」というバッチをつけた店員さんがいるが、その要領である。 それから、少なくとも”誰か”(アクションを起こせない人も含めて)を支援する意志のある人は、筆記用具を携帯すること。
 長年福祉をやっている人たちが、そういう発想がないのはどういうわけなんだろう?

 

リハビリが目的ではない

 先日アップした記事『訳者解説 新教養主義リターンズ』に、ご意見をいただいた。

 
  温暖化や排出削減そのものを自己目的化せず、という山形の指摘にも、大きく頷く。私が関わっているユニバーサルデザインという分野も、ユニバーサルデザインが「なるべく多くの人がよりよい暮らしをするために」という目的のための一手段のはずなのに(ここがわからない研究者がいたからビックリなんだけど)、「高齢者、障碍者とともにどういう社会をつくっていくのか」というヴィジョンは置き去りにされているように思えてならないのだ。

 というところに同意する、というものも。

 これは、いろんなコトに置き換えられる。 
 たとえば、怪我をしたり、障碍をもった人のリハビリテーションが目的化してはならない。ゆっくりお風呂を楽しむ、とか、友達とあってお茶をする、とか、映画を観るとか、”心豊かな生活”を送るためのリハビリテーションなのだ。

キャピタリズム マネーは踊る

 マイケル・ムーア監督の『キャピタリズム マネーは踊る』を観た。
 
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 金融資本主義の行き着いた先、サブプライムローン破綻後のアメリカ経済社会をシビアに見つめ、ユーモラスに描いた作品。ローンが払えなくなり、家を追われる住民。民間委託された刑務所に微罪で入れられ、正当な理由なく刑期を延長された少年少女。マクドナルドより安いパイロットの時給。従業員に死亡保険をかける企業。

 民主主義は、みな平等に1票があるが、「選挙民の大半は、努力を続けていれば、いつか金持ちになるチャンスが来ると信じているから」、この状況に文句はいわない、というシティグループの極秘メモ。アメリカンドリームが独占を許している、という皮肉。 

 この映画を観て『MONOPOLY』を思い出した。バブルになりかけの時代に、資本主義の
『MONOPOLY』というボードゲームが流行って(いまでも有名ね)、私もかなり楽しんだ。
MONOPOLY=独占というだけあって、そのゲームの勝敗は、絶対的な勝者が一人、あとのプレーヤーは破産に追い込まれる。中産階級がない。ムーアが訴える「1%の裕福層と99%の貧困層」というアメリカの現状は、まさにMONOPOLYだ。
 ゲームだったらプレーヤー全員にわかるルールがあるが、現実は複雑怪奇。デリバティブという、経済学者でも説明に困るからくりがある。ムーアは、この閉塞的な独占社会の打開策を、ローズベルト大統領のニューディール政策と、労働者の奮起と、キリスト教に求める(キリスト教徒にだって金の猛者がいるんだろうと思うが)。
 
 しかしなあ、子どもや孫の代まで心配しないですむようなお金持ちが、それでもまだおカネがほしいって、すごいわ。
 そして、一番印象的だったのは、金融企業が権力の中枢に入ることも、権力を握っている者が情報操作をすることも、いとも簡単、オチャノコサイサイだ、ということ。さて、日本はどうか?

 映画が終わったときに、客席から拍手が起きた。観客は8:2ぐらいの割合で男性が多かった。

伊勢丹吉祥寺店

 伊勢丹吉祥寺店の閉店セールが始まって1週間、まだかなりの人出。

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 町をあげて、伊勢丹にさよなら。
 近鉄や三越のときも、こんなだったかしら?

伊勢丹がなくなると、寂しくなるなあ。駅も改修中だし、ユザワヤが入っているビルも立て替えだし、どうなる、吉祥寺?

『訳者解説 新教養主義リターンズ』

東京にみぞれ混じりの初雪が降った12日。久しぶりに、冷え冷えとした電車に乗った。三鷹発の東西線に隣の吉祥寺から乗ったから、まだ暖房も効いていなかったし、乗客もまばらだった。「東京の寒さでこんなことをいうのは申し訳ないけれど、もうちょっと暖房強くしてほしいな」と思ったときに、ふと「先進国の多くの人々は、温暖化議論や排出削減が、なにやら優雅なライフスタイルの問題だと思っている。」というハナシを思い出した。


 山形浩生は『訳者解説 新教養主義リターンズ』(バジリコ)の中の、ビョルン・ロンボルグ著『地球と一緒に頭も冷やせ!』の解説で、こんなことを言っている。

 先進国の多くの人々は、温暖化議論や排出削減が、なにやら優雅なライフスタイルの問題だと思っている。みんなちょっと自動車を控えましょうとか、ちょっと電気を消しましょうとか、裏紙を使いましょうとかスローライフとか。でも実際は違う。それは社会全体に対し、もっと失業者を増やせとか、もっと早死しろとか言うに等しい話だ。そして、実際そうした選択を自主的にではなく外圧によって強制されている人々がいる。それでいいんだろうか。あなたは排出削減軽減で生活水準が低下する人々のところへ行って、おまえたちは貧しいままでいろと言えるだろうか?
 この前に、山形は本業の開発援助で赴いた、インド洋の島国の事情を語っている。そして、結びはこうだ。

 本書を読んでみなさんが少しでもそうしたことに思いをはせてくれれば、と思う。温暖化や排出削減そのものを自己目的化せず、それがそもそも何のためだったのかを今一度考え直してくれればと思う。温暖化の危機を訴え、排出削減を唱える人々の、善意は否定すべくもない。だがそれは何のためだったんだろう。人々の苦しみや被害を削減し、なるべく多くの人によりよい暮らしをしてほしいから、ではなかっただろうか? 本書で人々がその善意の原点にまで立ち返ってくれれば、これに勝る喜びはない。
 
 そうなんだろうな。地球上のすべての国を一律○%というやり方は乱暴だし、排出削減が錦の御旗っていうのもなにやらキナ臭いというのは、私のような環境問題に疎い者でも、もう感じている。なにを隠そう、ゴアの『不都合な真実』に驚いたのだけれど、かといって私自身の日常はたいして変わっていない。
 温暖化や排出削減そのものを自己目的化せず、という山形の指摘にも、大きく頷く。私が関わっているユニバーサルデザインという分野も、ユニバーサルデザインが「なるべく多くの人がよりよい暮らしをするために」という目的のための一手段のはずなのに(ここがわからない研究者がいたからビックリなんだけど)、「高齢者、障碍者とともにどういう社会をつくっていくのか」というヴィジョンは置き去りにされているように思えてならないのだ。

 ロンボルグの『地球と一緒に頭も冷やせ!』を、読んでみようかな。

 この『訳者解説』という本は、山形が訳した本に書いた解説を集めたもので、解説だけがずらりと並ぶ。本来ならば解説は本文とセットで読むものなんだろうけれど、独立した読み物として読者をひきつける。

 ぼくの解説は、よいところは十分に説明すると同時に、ダメな部分についても(営業的な配慮を度外視して)きっちりと批判するのが売りではある。
 
 山形には『新教養主義宣言』(晶文社・河出文庫)という名著があって、とくに冒頭の「プロローグ 心ときめくミームたちをもとめて」には考えさせられることが多い。「ホントにわかってるの?」という声がどこからか聞こえてきそうだが、歯が立たないのは認めた上で、私にとっては思考が行き詰ったときに読むと堂々巡りから抜け出せる特効薬で、希望がわくのだ。
 山形は、ときとして文体が乱暴(態度がでかい)と感じることもあるが、視点はとても誠実で、前向きだ。 

 


のだめカンタービレ 最終楽章 前編

 映画「のだめカンタービレ 最終楽章 前編」を観た。

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 前売りチケットを買って、待っていたのだよ。その割には、お正月過ぎて空いてから観てるんだけど。

 原作は、二ノ宮知子のコミック。コミックをほとんど読まない私が全巻買い揃え、実写版テレビに夢中になった(アニメはパスだった。顔が微妙に違うような気がしたし、声も好きじゃなかったので…)。映画は実写版テレビの続きから、お話が始まる。俳優もテレビと同じキャストだ。
 
 東京の音楽大学で出会った指揮者を目指す千秋真一(玉木宏)と、破天荒なピアノを弾く野田恵(上野樹里)の恋愛と、音楽家としての成長を描いている(一足先にコミックは物語が完結している)。ヨーロッパ編になると、学生ののだめより、若手指揮者として一歩を踏み出す千秋のほうに、ストーリーの比重が移る。
 この映画でも、一番の見所は、伝統はあるが今は潰れそうなマルレ・オーケストラの常任指揮者として、オーケストラを立て直す千秋の奮闘ぶりだ。指揮する玉木は、スマートと言うか、エレガントと言おうか、男性でも”美しい”という言葉がピッタリ。ちなみに、マルレ・オケのコンサートマスター役、マンフレッド・ヴォーダルツがいい味を出している。
 のだめの上野樹里は相変わらず可愛いしギャグも満載だが、後編の大活躍を期待したい。

 人形の吹き替えや、フランスでフランス人が日本語をしゃべるのも、違和感がないどころか、コミカルに活きていて面白い。
 
 千秋指揮のベートーベンの交響曲第7番で幕が開き、そこがウィーンの楽友協会。なんて贅沢な。楽友協会が映画のロケで使われるのははじめてなのだそうだ。オープニングに「ベト7」、エンディングの「ラプソディー・イン・ブルー」はテレビと同じ。そのほか、ラヴェルの「ボレロ」、デュカス「魔法使いの弟子」、モーツアルト「ピアノソナタ第11番<トルコ行進曲>付き、ショパン「子犬のワルツ」、そして武士=黒木クン(福士誠治)のテーマのようなモーツアルト「オーボエ協奏曲」、etc. 中でも一番印象に残ったのは、新生マルレ・オケのお披露目のシーンで使われたので、チャイコフスキー「序曲 1812年」。感動的で、見終わったあとも、祝典のメロディと大砲が頭の中で鳴り響いていた。

 映画が前編、後編に分かれたことは、二人の成長をじっくり描き(そこにはクラシック界の舞台裏も垣間見える)、音楽を聴かせることも考えれば仕方がないと思う。かといって、映画でなければこれだけのヨーロッパロケはできなかっただろう。
「最終楽章 後編」は4月に封切り。「前編」のエンディングの後に、「後編」の予告編が流れて、気を持たせるのだ。はやく観たいな。 


松の内

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 勤めていたときのように、「今年も張り切って参りましょう」という仕事始めの日が折り目正しくあるわけではなく、なんとなく今年の日常が始まっている。仕事に役立ちそうな本を読んだり、年末にできなかった部屋の片付けをちょっとしたり。松の内だから本格モードではありませんが(たぶん連休明けまでこんな感じ)。

 雑誌を片付けていたら、BRUTUSの「YouTube」特集号が出てきた。そういえば、亜細亜大学で講演したときに、むさしの未来まちづくりたいのメンバーが、その講演記録のビデオを撮っていた。私としては「映像に映すのは勘弁してください(写真もホントは嫌)」なのだが、やろうと思えば、自分たちで映像をとってインターネットで流せる時代。映像まで行かなくても、音声ならすぐに作れそうだし、なにか制作するのも面白いな。と思ったが、地域活動は、まだまだインターネットより紙媒体が強い。Podcastに力を入れるより、先にやるべきことがありそう。

  個人的に、このブログにPodcastを添付するのも面白そうだけれど、その前にもうちょっと更新頻度をあげたいと反省している。いや、でも、なんでもない人の日記読んでもつまんないだろうし、なにかトピックがないとね。
 それに私は文章の力を信じているのだった。Podcastより、文章を精進、精進。
 
 そんなことを考えながら片付けをしているので、ちっとも進まない。今年は春頃から忙しくなりそうなので、それまでに部屋を模様替えしたいと思っているんだけど……。

神明宮に初詣

 初詣は、地元のお宮の他に、お詣りしたことがない神社またはお寺に行くことにしている。今年は阿佐ヶ谷の神明宮。

 去年の夏頃『タモリ倶楽部』で、曳家(ひきや)を見た。なんていったらいいのか、建物をそのまま移動させる技術で、実際に神社のお社をそのまま移動させている恩田組の現場にタモリさんたちが立ち会っていた。たしか本殿と拝殿を離して、場所を移動していたのだ。それが阿佐ヶ谷の神明宮で、平成の大改修の様子だった。
 
 調べてみると、かなり由緒正しき神社だ。天照大神をお祀りして、東京都内最大の伊勢神宮勧請(かんじょう)の神社であるそうな。近いのに、知らなかった。

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 阿佐ヶ谷北口を降りてすぐ、杉並第一小学校の横。


大きな鳥居をくぐると参道の脇に、立派な能楽堂がある。平成の大改修で本格的な能狂言が演じられるようになったそうだ。
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拝殿から本殿を臨む。今年も良い年でありますようにとお願いをして、

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健康祈願のお守りをいただいた。願いことは数々あれど、まずは健康に過ごせますように。
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東フィル ニューイヤーコンサート 2010 

 あけましておめでとうございます。

 1月2日。東京フィルハーモニー交響楽団のニューイヤーコンサートを聴きに、オーチャードホールへ。
 4年前から、毎年恒例にしている。きっかけは4年前のゲストがオーボエ奏者を引退する直前の宮本文昭だったので、これはライヴで聴き納めをしておきたいと思ったから(その前の年、私は病を治療していたので「今年は復活の年にしたい」という希望もあって、寝正月ではない新しい年の過ごし方を考えたということもある)。
 他のオーケストラのニューイヤーコンサートがどういった趣向なのかは知らないのだけれど、今年、司会の朝岡聡が「音楽の福袋」と言っていたのが言い得て妙、華やかで肩が凝らないコンサートだ。

第1部
デュカス/交響詩「魔法使いの弟子」
ラヴェル/ピアノ協奏曲 ト長調
武満 徹/グリーン

第2部
アンダーソン/プリンク・プランク・プルンク
アンダーソン/タイプライター
ショパン/「レ・シルフィード」より“ワルツ” “マズルカ” “華麗なる大円舞曲”
ハイドン/ヴァイオリン協奏曲第1番 ハ長調より第2楽章 **
ショスタコーヴィチ/バレエ「明るい小川」より “ワルツ”
J.シュトラウスⅡ/春の声

 今年の指揮は井上 道義。この人は聴かせるだけでなく、踊ったり、演じたり、見せる(魅せる)指揮者。プログラムも井上さんが選曲して、フレッシュがキーワードなのだとか。
 おなじみの「魔法使いの弟子」で幕が開き、ラヴェル、武満と作曲者の名前はよく知っているけれど、はじめて聴く曲が続いた。ラヴェルのピアノ協奏曲はジャズの影響があって、ガーシュインの曲みたい。二人とも生きた時代が同じだから似ていても不思議ではないね。 この曲のピアノが菊池洋子、モーツアルトのピアノソナタで有名な人だそうだ。

 第2部、「ハイドンのヴァイオリン協奏曲第1番 ハ長調より第2楽章」はハイドンが若いヴァイオリニストのために作曲した曲なのだとか。本日のソリストの郷古 廉(ごうこすなお)は、弱冠16歳。「穏やかな曲なので、かえって難しいでしょう」と朝岡に聞かれると、頷きながら「第2楽章だけ弾くっていうのが、もっと嫌」と言っていた。正直だな。この歳で、もう1682年製のストラディヴァリを貸与されているというから、その期待度はすごい。ヴァイオリン界の石川遼クンみたいな人だ。桐朋学園大学ソリスト・ディプロマコースに特待生として入学している。高校生としてのお勉強は他でしているらしいけれど、英才教育しなくちゃ才能がもったいないでしょ、ということなんだろう。素晴らしいね。(音楽に限らず)伸ばせる才能は、どんどん伸ばしたらいい。一般人は、いい聴衆になることが、才能を応援する方法。何年後か、郷古クンが世界的なソリストになったら、「16歳のとき演奏を聴いたことがあるのよ」と自慢しましょう。
 そういえば去年、ハノーバー国際バイオリンコンクールで優勝した三浦文彰も16歳、お父さんが東フィルのコンサートマスター、三浦章広サン。年末の親子競演(凱旋公演)を聴き逃して残念だった。
 
 ショスタコーヴィチの曲が入っているのは井上サンならではの選曲か。.シュトラウスⅡの「春の声」でニューイヤーコンサートらしく。やっぱりニューイヤーコンサートは、ウィーンが本家だからね。
 そしてお年玉の景品、ラデツキー行進曲の指揮は、お嬢さんが打楽器を習っている(この日、先生が演奏していた)30代ぐらいの女性にあたった。 ややゆっくりとした、でもしっかりとしたラデツキーだった。

 はじめて聴く曲があったり、若い演奏家を知ったり、その曲の生い立ちやドラマがフレッシュだったり(魔法使いの弟子」は弟子=成長の途中だからフレッシュなんでしょうね)、新春を祝うのにふさわしいコンサートで、とても楽しめた。

 終演後、隣の東急本店にある、なだ万茶寮で食事。これも毎年の恒例行事。こうやって、いつもと同じように新しい年を迎えられたことに、乾杯。そして数々のフレッシュな希望にも。

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